夜航弩の見習い隊長と反転軍 第3話「第2章」
風の切れ目から、金属と布が擦れる音が細く漏れた。床に伏せたひとりの避難民が、荒い息をつく。胸の上下が乱れ、唇は紫に染まりかけている。誰かが押さえた布が血に濡れて小さく震え、隣の壁に夜航弩の矢影が斜めに落ちていた。矢の影は異様に長く、壁のひびに沿って黒い爪痕のように伸びる。
風の切れ目から、金属と布が擦れる音が細く漏れた。床に伏せたひとりの避難民が、荒い息をつく。胸の上下が乱れ、唇は紫に染まりかけている。誰かが押さえた布が血に濡れて小さく震え、隣の壁に夜航弩の矢影が斜めに落ちていた。矢の影は異様に長く、壁のひびに沿って黒い爪痕のように伸びる。
レイはその影を見た。片手には夜航弩の把手を握り、木の冷たさが掌の中で固まるようだった。弓弦の付け根から、微かな蒼い光が指先を這う。心臓の鼓動が耳を満たし、耳鳴りが遠ざかる。使えば――今すぐにもこの場は終わる。避難民全員を囲む暴徒の動きを凍らせ、痛みと出血を一つの選択に収束させることができる。
「レイ、どうするんだよ!」ソウタが刀身を振り上げたまま喚く。顔には泥と血が混じり、額に深い皺が寄っている。ソウタの瞳は怒りと恐怖で波打った。遠くで、外の路地から子どもの声が突然途絶えた。だれかが銃口を外に向けたのだ。
ミユは膝をつき、吐き出した息を布で拭う。倒れた避難民の手首に脈拍を確かめながら、唇を震わせる。背後で仲間たちが銃の照準を定め、呼吸を合わせる。緊張が塊となり、室内の空気を重くしていた。
「一度だけだ。忘れるな、一度だけなんだ」ソウタが低く言った。「夜航弩は一度だけ。使えば取り返しはつかない。おまえ、自分で使ったときのこと――」
レイの指先が微かに痺れ、過去の残像が波紋のように広がった。あの日、レイは仲間が全滅しそうな状況で独断で弓を引いた。光が走り、世界が他の誰かと重なった瞬間、レイは耳を失った。音が消え、無音の世界で命令を出せず、一隊を導けなかった。帰還後、耳鳴りは何日も引かず、味覚まで淡くなった。仲間の一人が、震えながら腕を取って「やめろ」と叫んだ光景が蘇る。
「あの代償は俺が知ってる。おまえひとりでやると、そうなるんだ」ソウタの声は固かった。「でももっと悪いのは、同意がないまま使うときだ――」
「そんなことはない」レイが即座に遮った。声に揺れはなかったが、掌の血管が浮き上がる。彼は弓の先端を床に向け、矢影が床板の節に落ちる。影はそこから少しずつ歪んでいくように見えた。「夜航弩は、俺たちの作戦を一回だけ実現する。仲間と“共有”したものだけを。そうだろう?」
「本当にそうなのか?」ソウタが睨む。「伝説だ。おまえが使ったときは――」
「俺は共有して使ったつもりだった」レイは喉をならした。「でも、そのときは諸条件が違っていた。俺が独断で引いたその一回の代償は、全部俺の身体が負った。黙って使うことと、同意を無視して使うことは違う――」
ミユが顔を上げた。瞳に悲しみが宿る。彼女は包帯を片手に持ち、もう片方の手で避難民の額に触れた。その素振りが、静かな決意を示す。「同意を無視して使うと、効果が敵にも及ぶって、本当なの?」
その問いに、室内の空気が一瞬凍りついた。誰もが息を飲む。ソウタは唇を噛み、言葉を選んだ。「あいつらは――反転軍のやり方を見てきた。力を一方的に押し付けると、その“共有”の縁がゆがむ。理屈としては、同じ視座が複数にかぶさると境界が曖昧になって、結果的に敵も巻き込まれると言われている。つまり、俺たちが作戦を実現させた瞬間、誰が仲間なのかを弓が決められなくなる。敵も味方も、同じ絵の一部になってしまう」
「……誰がその“絵”を描くか、ってことか」ミユが呟く。額の汗が光る。倒れている避難民の呼吸は浅く、手の平に伝わる振動が弱い。
レイはわずかに揺れた。弓の重みが突然増し、掌の中の木目が冷たく刻みこまれるように感じる。もし同意を無視して使えば、狭い路地にいる敵もその作戦の輪郭に取り込まれ、成り行きによっては避難民と同じ縛りを受ける。思い浮かべるのは、敵が絶望的な状況で刃を走らせる絵だった。仲間を守るはずの「共有」が、そのまま敵の暴走を許してしまう可能性。レイは、矢影の先に見えた小さな子どもの目を思い出していた――昨日の夜、薄暗い路地で泣いていたあの子だ。
「待つ理由があるなら言ってくれ」レイは低く言った。「俺は一度も、同意を得ずにこの弓を使いたくない。ただ――ここで待っている間に誰かが死ぬなら、それは俺の選択だ」
会話が膠着する中、外で銃声が二発、低く鳴った。建物の隅で立っていた若い避難民が体を震わせ、呼吸が小刻みに途切れた。ミユの手が急に速く動き、包帯をさらに押し当てる。血が指の間から滲む。床に落ちたコンクリ片の陰で、薄暗い影が蠢く。
「時間はない」とミユが言った。「あなたたちが話してる間にも、向こうは動いてる。彼らは選択する余裕を与えようとは思ってない」
ソウタが短く笑った。「そうだ。反転軍は選択肢を潰す。制度で人の意思をひとつにまとめるんだ。それを放置すれば、この街は消えるだけだ」
「でも、一人で使うなら――」ミユが言葉を切る。指先が弓を撫でる。蒼い光がその指の甲を青く染める。静かな決意が、呼吸の中に混ざる。
レイはミユの顔を見た。長い黒髪が額に張り付き、涙か汗か区別のつかない痕が頬を流れている。彼女の目は落ち着いていた。何かが心の内で固まったような光だ。
「了承する」ミユが言った。言葉は短かったが、部屋の温度が一度だけ下がったようだった。ソウタの眉が跳ね上がる。驚きと、全幅の不安が混じった表情だ。
「ミユ!」ソウタが飛びつくように声を張る。「待て、そんな勝手な……俺と話し合ってからだ!」
ミユはソウタを振り払わず、ただ首を小さく振った。「話し合う時間なんて、今はないでしょ。ここで誰かを見殺しにする時間はあるの? 私が承諾する。レイ、でも一つだけ条件がある」彼女の声には断固たる鋭さが乗っていた。「あなたがこの弓を引いた後で、私たちは一緒に仕組みを変える。私たち以外の人々が、自分で選べるようにする。それが本当に守るってことなら、私はその代償を共有する」
その言葉が部屋に落ちたとき、他の者たちの視線がミユに集まる。息をしていた避難民の呼吸が少しだけ安定したように見えた。だが、ソウタの顔は苦悶で歪む。「ふざけるな。そんな約束は綺麗事だ。俺は、――俺は今は承諾できない」
「ソウタ、任せて」ミユは静かに言った。彼女の手がレイの袖を掴む。触れた皮膚に、夜航弩の冷気が伝う。レイはハッとした。過去の代償の記憶が、掌に絡みつく。耳鳴りがじわりと戻ってくるような予感。だがミユの決意は揺るがず、その手の温度は確かだった。
「いいのか?」レイは訊いた。声音はほとんど囁きだった。「本当に、一度きりを――」
ミユは頷いた。唇がわずかに震えた。「ええ。選ぶのは私たちだけじゃない。拒む人がいても、その意志を尊重する方法を、あのあとで探す。今は――守る。今日ここにいる命を」
レイは弓を握り直した。弓弦に指をかけると、小さな振動が掌から肘へと走った。耳鳴りの微かな影が広がる。外からは遠吠えのような叫びが入り、屋根瓦が一度低く鳴った。室内の灯りが一瞬暗くなり、矢影が壁にくっきりと浮かんだ。
ソウタは銃を下ろさないまま、だが瞳には諦観が滲んでいた。「やるなら、ちゃんとやれよ」彼は短く言った。「だが忘れるな、後には代償が来る。あんたの身体がどうなるか、誰も保証できない」
「分かってる」レイは低く返