夜航弩の見習い隊長と反転軍 第29話「巻末特別章」
倉庫の天井からぶら下がった裸電球が、夜航弩の横顔に薄い円を描いた。木箱に載せられた弩は、古びた真鍮の輪と黒檀の柄が淡く光る。空気は油の匂いと湿った布の匂いで重く、話し声は箱の角にぶつかって散った。外では、まだ遠雷が蠢いている。
倉庫の天井からぶら下がった裸電球が、夜航弩の横顔に薄い円を描いた。木箱に載せられた弩は、古びた真鍮の輪と黒檀の柄が淡く光る。空気は油の匂いと湿った布の匂いで重く、話し声は箱の角にぶつかって散った。外では、まだ遠雷が蠢いている。
「ここで決めるって、誰が決めたんだ?」声は篠原だった。風が吹き込むと彼のコートの裾が音を立てた。篠原は村の代表で、目に疲れのある中年男だ。彼の顔を囲むのは、避難民の代表と、レイを含む小さな護衛隊。ミハは手に温かい缶を握りしめ、ソウタは弩の近くで膝をついている。アイコが記録用の紙を抱え、誰も聞き漏らさないようにとメモをする音だけが鋭かった。
「ここで、今、決めればいい」と篠原は言った。「反転軍の『選択変換』の端末はまだ市街に残っている。あいつらが次にやることを止める──夜航弩で端末の指令を一度だけ書き換えられれば、被害は食い止められる。人民の意思を守るには、今しかないだろう?」
言葉は単純だが、倉庫の空気が凍るのが分かった。レイの手が、無意識に弩の柄を探る。冷たかった。夜航弩は握られたときだけ、生き物のように脈を打つ。だがその生気は、合意という細い糸で繋がれていた。合意がなければ、不具合が起きる──レイはそれを、これまでに何度も見た。合意のない発動は作用対象を誤る。不在の意思を拾い、敵か味方かに関係なく選択を剥ぎ取ることがある。
「一度きりの実行だよ」ミハが柔らかく言う。「誰か一人の正しさを信じて、他の人の意思を奪うって、それが『守る』だって言える?」
篠原の瞳が揺れた。彼の背中に小さな傷跡が見え、そこには選択を奪われた村の記憶が重なっているのが分かった。「でも、待ったら──」
「待てば、反転軍の宣伝がまた群衆を崩す」とアイコが割って入った。「合意なんて、いつまでも取れるとは限らない。あの端末が次に人々の投票を改竄したら──」
「だからって、今ここで決めるのか?」篠原は弩に手を伸ばした。指先が、黒檀の曲線に触れる。冷たい感触が指を伝って、彼の呼吸が一瞬止まった。「一度でいい。行動だ、レイ。君が引き金を──」
「合意だ」レイは静かに言った。声に震えはないが、周囲の空気がそこに集まる。合意は単なる同意ではない。一つの作戦の細部まで共有され、意思が重ねられること。夜航弩はそれだけを媒体にする。だが、全員が揃うまで、時間は限られていた。
その瞬間、背後で金属音がした。ハセガワ──若い男が割り込んできて、無理に篠原の手首を掴んだ。額に汗を浮かべ、目が血走っている。「時間がない! 今やらないと子どもたちが──!」彼は乱暴に弩を引き寄せ、力で引金に手をかけた。
「待って!」レイが飛び出したが、ハセガワは力任せに弩を引き絞った。張った弦のように、場の均衡が断ち切られ、夜航弩は低い唸り声を上げる。合意が欠けている。無防備な乱暴さが、器具の意思を狂わせた。
光が放たれた。細い蒼白の線が夜空を裂き、倉庫の屋根を突き抜けて外へ走った。誰もの視線が追った先で、その光は市街地の方向に吸い込まれる。レイは両手を伸ばしたが、弩は既に勝手に働いていた。
翌秒、無線が一斉に悲鳴を張り上げる。近郊の見張りが、歩哨が、寝台の端末が──次々と動きを止めた。映像では、反転軍の小隊が道端で足を止め、無表情に手を下ろした。端末のディスプレイには、見知らぬ文字列が残ったまま、入力を受け付けなくなっている。だが同時に、倉庫の中の古い投票端末の表示も変わっていた。アイコが指差す。投票の受付画面が書き換わり、入力が勝手に変更されていく。
「違う、違う、違う!」ミハが叫んだ。ハセガワは手を離し、弩を前に呆然と立ち尽くした。彼の顔は土気色になり、瞳孔が広がっている。何かが体の内側を引き裂いたような音がした。だが、それは音ではなく、合意の欠如が弩を暴走させ、対象の範囲を「敵」だと誤認し、同時に「機械化された選択の媒介」──つまり公共の記録装置──にも作用してしまったのだ。
混乱が一気に波及する。人々の声が乱反射し、子どもが泣き、誰かがテーブルを蹴った。レイは汗で手が滑るのを感じながら、弩から逃げようとする衝動を抑えた。弩はもう、その場にとどまることを許さない。影の中で敵の罠が笑っている気がした。
「戻す方法は──!」篠原がしゃがみ込み、額を掴む。彼の唇が震えた。「誰かが一度で、元に戻せるかもしれない!」
沈黙が落ちる。弩は既に射った。夜航弩のルールは誰も変えられない。だが一つだけ──合意がなくても、単独で使うことは可能だ。代償は明白だ。身体の一部を、感覚の一部を失う。レイは自分がその代償をどれだけ受けたかを知っている。片耳の遠さ。静かな世界の一角。代わりに、誰かの選択を守った。
「俺がやる」とソウタが言った。言葉は低く、確信を帯びていた。彼の手は震えているが、迷いはない。ソウタは子どもを抱くように弩を抱えた。「俺がやる。端末を元に戻す。ミスを消す。」
「ソウタ!」ミハが駆け寄る。彼女の手がソウタの腕に触れる。が、ソウタは振り向かない。彼の目は既に弩の刻印を追っていた。ソウタは一度だけ深く息を吸い、そして引き金に触れた。合意はなかった。単独使用だ。
光が、また走った。今度は細く、そして濃密だった。倉庫の内部を撫でるように光が通り、外の端末へと届く。投票の書き換えは、ゆっくりと巻き戻されていった。改竄されたログが一つずつひらわれ、元の意思表示が再び文字として浮かび上がる。反転軍の拘束された小隊は、ふわりと力を取り戻し、首を振って現実に戻った。ハセガワは膝から崩れ落ち、息を吐いた。篠原は恍惚としたように笑い、子どもの手を握りしめた。
だがソウタは、目を閉じたまま立っていた。彼の顔から血の気が引いてゆく。ミハが顔を覗き込むと、そこには驚きが走った。「ソウタ、目が──」
彼はゆっくりと手で顔を触れた。指先が頬を撫で、そして目の前の世界を確かめるように手を広げる。だがその表情は変わらない。色の判別が鈍っていた。木箱の黒が、倉庫の黄が、ソウタの着ているコートの赤が、すべて灰色の帯になって目の前を流れている。色の世界が薄く、紙に印刷された文字の一枚に還ったようだった。
「味がしない、ってのとは違う」ソウタは微笑んだが、それは痛みを飲み込む小さな合図だった。「色が……遠くなる。遠くて、触れられないみたいだ。」
レイの胸が締めつけられた。ソウタは自分の代償を選んだのだ。合意を得られなかったから、彼は一人で弩を引き、代償の代わりに共同体の意思を取り戻した。聴覚でもなければ嗅覚でもない。ソウタは、色の喪失を代価にした。彼の世界は、確かに見えているものの彩度が失われた。だが、人々は拍手し始める。誰かが口笛を吹いた。小さな歓声。命が守られたこと、それだけは揺るがなかった。
「ありがとう、ソウタ」ミハが囁き、膝をついて彼の手を取った。指先は温かく、触覚は残っていた。ソウタは手を握り返した。握る力は変わらない。
倉庫の外、遠くでサイレンが鳴り、反転軍の残党が退却する音がする。疲労と達成感が混じった湿気が、体を包んだ。だが、誰かが床に落ちた紙片の端を拾い上げ、辺りを見回すと、顔の表情が曇った。
夜航弩の柄に刻