玻璃拳の運び屋と封鎖都市 第8話「第7章」
湿った空気が倉庫の内部をまとい、蛍光灯の残り火が網目の影を床に落としていた。リクは手のひらを見下ろす。拳の皮膚が、いつもより薄くなった玻璃のように光っている。触れるたびにきしむ感触が走り、指先から冷たい痛みが広がった。
湿った空気が倉庫の内部をまとい、蛍光灯の残り火が網目の影を床に落としていた。リクは手のひらを見下ろす。拳の皮膚が、いつもより薄くなった玻璃のように光っている。触れるたびにきしむ感触が走り、指先から冷たい痛みが広がった。
「まただ。お前のその――」
ユウが言葉を切り、言葉の先をミカが続ける。靴裏が埃を蹴る音が、倉庫の高い天井に反響して、緊張を増幅させた。ショウは腕を組み、まぶたを下ろしたままこちらを向かない。
「責めるのはわかる。でも、言ってくれれば……」
リクの声は予想よりも細く、乾いていた。誰かが、彼の能力を勝手に使ったのではないかと問い詰めている。その問いが、彼らの態度の背後にある。
「言ったって、選べる時間なんてなかったんだろう?」とショウ。少し笑いを含んだ声だったが、笑いは尖っていた。「避難民が固まってる。あの機械が、あの封鎖都市の装置が迫ってきた。リク、お前は――」
リクは拳を握り直した。玻璃拳は、彼が掌で媒介する一度きりの作戦を現実化する稼働器具だ。それを誰と共有するか、誰が同意するか。その合意がなければ、仕組みが狂う。彼の掌に広がる冷たさがそれを思い出させる。以前、合意が不完全なまま作動したことがある。敵側にも影響が及び、避難民の動機が奪われた。あの一件で、何人かがリクを責め、顔を背けた。
「俺は、独断で使ったことはないつもりだ」リクは低く言った。「でも――確かに結果的に、誰かの意志を置き去りにした瞬間があった。俺の未熟さだ」
ミカが一歩前に出る。顔には疲労と怒り、そして守りたいという母性が混ざっている。「未熟なんて言葉で片付けられるのか。あの時、子どもたちが動かなかった。夢中で背を向けた者もいた。もしあんたの力がその原因だとしたら、私たちだってそう簡単には信用できない」
空気がぎくりと震えた。誰かの指先が、金属製のテーブルを弾いた。小さな金属音が、冷たい断絶を表していた。
「じゃあ、行こう。一緒に行こうって言う奴は手を挙げろ」ショウが唐突に言い放った。言葉に煽りが混じる。三人、四人、手が上がるが、一つ、二つと沈んでいく。集団は割れ始めた。
リクは目を閉じた。仲間たちが、彼の背中に背を向ける光景が、胸の奥を締めつける。だが、それ以上に、自分が守ると誓った人々の顔が浮かんだ。避難民の目に映った、不安と信頼の微かな縞模様。責められるのは受け入れる。しかし彼は、もう一度だけ、誠実に話す必要があった。
「俺に、もう一度だけ聞かせてくれ」リクは声を震わせずに言った。「ここにいる全員、あの場の避難民も含めて、誰が何を選ぶのか。俺は、これからも皆の合意がなければ、玻璃拳は使わない。たとえそれが最短の解決法でも、無断で使えば代償は必ずおれに還ってくる。もしそれでも、誰かが合意するなら、その瞬間だけ、その作戦を共有する。俺はその合意を尊重する」
ユウが小さく息を吐く。「理屈はわかる。でも、緊急の時に合意なんて取れるのか? 状況は刻一刻と変わる。あんたの拳が効く間も無く、決断は他の誰かに委ねられるだろう」
「それでも。決めるのは本人たちだ」リクは拳を見つめたまま言った。「俺が勝手に決める権利はない。だから――」彼はゆっくりと片膝をつき、掌を床に押し付けた。玻璃拳の表皮が一瞬、透明な光を帯びる。周囲の空気が引き締まり、埃の粒子が光を受けて舞った。
「俺は、もう一つの代償を今ここで引き受ける」リクの決意は、静かだった。彼が掌を握る。仲間たちの視線が一斉に集まる。リクは自分に課す誓いとして、能力を単独で発動することを選んだ。単独使用は反動として感覚の一部を奪う。それを受け入れることで、以後、無分別な使用を自ら制限しようというのだ。
「やめろ」とアイリが声をあげた。驚きと恐れが混ざった声色で、彼女はリクの手に触れようとしたが、ユウが腕を伸ばして制した。「やらせるな。今ここで、永久に失うかもしれないものを一人のためになんて」
リクは微笑むように首を振った。「誰かに強制したくないんだ。俺が独りで引き受けるって決めたのは、皆が自由に選べるようにするためだ。代償を見せて、それでも共に歩くか、それとも別の道を選ぶかを。そうしたいんだ」
掌に力を籠めた瞬間、玻璃がきしむ音が耳に入った。まるで内側で何かが割れるような感触が走り、右側の視界がわずかにぼやけた。冷たい痛みが頬の奥まで広がり、同時に舌の先から味覚の一部が抜け落ちていく。コップに残った水を口に含んだとき、いつも感じる金属の刺激が消え、ただ淡い湿りだけが残った。
「……くっ」リクは顔をしかめ、膝をついたまま立ち上がれずにいた。胸の奥に、虚ろな場所がぽっかり空いたような気配がする。感覚が一つ欠けるということは、その分だけ世界の色が変わるということだ。
ミカが駆け寄り、リクの肩を掴んだ。「本当に……本当にやるなんて。あんた、馬鹿ね。だけど、あんたの顔を見ると、なんだか守らないといけない気持ちになる」
ショウはポケットに手を突っ込み、肩をすくめた。「ふん。結果を見せたところで、俺は自分のやり方で動く。あんたの拳に頼るつもりはねぇ。だけど――」その声はしばらく沈黙した後、続いた。「リク。お前が選んだなら、俺はその選択を尊重する。だが、俺は俺のやり方を貫く」
ユウは長い間黙っていた。最後に、彼は唇を噛んでから静かに言った。「なら、各々で行こう。だが、どこかでまた一緒になったら、その時は腹の底から話し合おう」
集団はささやかな別れのように散らばった。人々の足音がそれぞれの方向に消え、倉庫は再び広がる静寂を取り戻す。リクは立ち尽くし、舌先に欠けた色を確かめる。失った感覚は戻らない。だが代わりに、何か軽くなった気がした。誰かの意志を奪わずに守るための代価。――それを自らに課すことで、彼は誠実さを証明したのだった。
アイリがゆっくりと近づいてきた。薄い銀色のメモ端末を抱え、顔には思索の影が落ちる。彼女はリクの手をそっと取らずに、掌の玻璃の輝きを見つめた。
「興味深いわ」アイリの声は、研究者の興奮と冷静さが紙一重で混ざっていた。「玻璃拳、合意という概念に反応する――でもそれだけでは説明しきれない。もともとこれは、合意をただ記録する道具だったんじゃないかって仮説が浮かんだの」
「記録?」ミカが首をかしげる。「そんなものが武器のように動くのか?」
アイリは端末の画面を撫でた。壁の影が彼女の顔に落ち、眉根が寄る。「集約する──合意を集め、ひとつの意思に変換する。合意があるなら、複数の弱い判断を重ね合わせて大きな力を生む。だけど、もし合意の器具が壊れたり、無理やり書き換えられたりしたら? 合意そのものが奪われるのと同じ効果を生む。制度として設計されていれば、強者が弱者の選択肢を削ることも可能になる」
リクは自分の手を見つめながら、ゆっくりとうなずいた。「封鎖都市は、個の選択を管理している。人々の動きを――意思決定の回路ごと制御しているんだろう」
アイリは端末の一角を指で押す。画面が小さく震え、ログの断片が浮かび上がる。文字列は古いフォントで、部分的に欠けていたが、確かに「合意」と「集約」を示す断片が残っている。彼女の指先が、