玻璃拳の運び屋と封鎖都市 第4話「第3章」
背後から来た金属の羽根が、路地の空気を切り裂いた。低い唸りが壁に反響して、ネオンの光が細かく揺れる。濡れたアスファルトに落ちた光が、蝶のように散っていく。
背後から来た金属の羽根が、路地の空気を切り裂いた。低い唸りが壁に反響して、ネオンの光が細かく揺れる。濡れたアスファルトに落ちた光が、蝶のように散っていく。
「来た。追っかけてる」
カズの声が短く裂けた。彼は肩越しに、黒い蜂のような小型監視機体を三体確認していた。機体の腹に点滅する赤いアイが、彼らの位置を正確に示す。群れの中の一機が隊列を逸れて、路地の入口にある低いかまぼこ型の排水口を越えようとする。羽根が吐く熱風が、立ち上る水蒸気を白く揺らした。
リクは反射的に手を振った。掌の中央にある小さな掌形の結晶──玻璃拳は、指先の感覚より先に冷たく疼いた。しかし、その疼きはいつもと違って鋭く、指先の先から耳の奥にかけて、空洞のようなひんやりとした感覚が広がった。
「無理だ。今、使えない」
言葉はいつもより低かった。セラが振り向く。薄い顔に汗が光っている。雨粒のようにネオンが頬に反射した。
「どういうことだ、リク? 今が――」
「今はダメだ。やるなら全員の意思が必要だ。合意がないと、効果は敵側に跳ね返る」
そこまで言いかけて、リクは掌をぎゅっと握った。冷たい疼きが増して、左の耳鳴りが鋭くなった。過去の代償が記憶を残している。単独で使ったときのあの夕暮れ、色がひび割れ、音が抜け落ちた感覚。あの痛みが、まだ予兆として残っているのだ。
「それでも逃げないと――」カズが言った。彼の声は震えていた。右手で背中のザックを押し直す。ザックの口から、赤ん坊らしき小さな毛布がちらりと見えた。数時間前に合流した避難民の一人の子だ。カズの指先は、無意識にその毛布の縁に触れている。
「カズ!」ジュンが前に出た。短い刃を握った手に力が入る。路地の出口、狭い十字路の先に、ランプが撒く黄色い濁りがある。そこが彼らの予定経路だ。だが監視機体はその通り道を平行して飛び、二度のスキャンを重ねていた。出口付近には、封鎖都市の定置センサーの小さな点が輝いている。もし彼らがいつも通りに出れば、群れは光に拾われる。
「分岐案がある」セラは地図をひったくるように出した。薄い紙に油性のマーカーで書かれたルートが、いくつも黒線で塗りつぶされている。路地の出口を使わず、古い地下送水管へ回ることを示す細い点線。そこは表向きには廃止され、地図にも存在しない非正規の隠蔽ルートだ。入るためには真新しい格子を通り、下に降りる際に小さな扉を押し開く必要がある。
「だけど、そこは狭い。ミスしたら子どもがパニックになる」ジュンの低い声に、空気が引き締まる。カズは眉間に縦皺を寄せ、毛布を抱えた腕が僅かに震えた。
「俺が行く」カズの口から出た言葉は短く、決意の響きがあった。だが、同時にそれは別れの匂いでもあった。仲間から離れて一人で抜けるという選択は、運び屋として、何よりも自分の保身を優先するという意味に聞こえた。彼の目が一瞥した先には、封鎖都市に面した高い塀。それを越えれば、取り引きや裏道を知る街外れの男たちがいる。生存の選択は、いつだって重い。
「やめろ。二手に分かれるなんて」セラが短く遮る。だが、カズは首を振る。唇が震え、瞳に一瞬冷たい光が差した。誰かの命を守るためには、時としてルールを破らねばならない――彼の掌の中の熱がそれを囁くのだ。
リクはその場で手の掌を空に向けた。冷たい風に掌の結晶がわずかに光る。玻璃拳は、仲間と共有した"作戦"を一度だけ現実に転化する。だが、その"共有"はただの確認ではない。仲間たちの意思が、拳の軌道を確定する。誰かが同意を欠けば、その力は作戦を実行する主体を読み違え、異なる結果をもたらす。
「カズ、聞いて」リクの声は静かだが強かった。「単独行動はできない。ぼくがやっても、今は逆に働く。敵に有利になるだけだ。……それに、使うと、感覚が失われるんだ。見えなくなったり、音が抜けたり。今は君らの側にいたい」
カズの拳がわずかに開く。毛布の先で小さな足がぐにっと動いた。周囲が一瞬沈黙した。遠くから、監視機のモーターの高い唸りが近づく。
「誰も道を決められないのか?」とジュンが吐き捨てるように言う。苛立ちと恐怖が混ざった声だった。決断の遅れは、群れ全体の安全を蝕む。リクはそれを分かっている。だが、同時に彼は知っている。過去に一度、ルールを無視して单独で使用しようとした時、彼の視界は白い切断面を作っただけだった。眼前に現れたのは成功ではなく、切り取られた時間と抜け殻の音。使い方を誤れば、敵がそれを利用する――封鎖都市の監視は、そうした隙を狙ってきたのだ。
「選べ」リクは言った。「合意で隠蔽ルートに行くか、分断して突っ込むか。どっちにせよ、みんなで決めて。その場の独断で拳を触らせるようなことは、させない」
セラが地図を押し付けるようにしてカズの前に差し出した。ゼブラのペンで丸が描かれる。彼らの肩が触れ合う。ネオンが目に刺さる。群れの中の小さな顔が、毛布の影に囁く。カズは一度息を飲んだ。彼の目に光るものは、怒りでも逃避でもなく、選択への重さそのものだった。
「合意で行こう」カズが小さく吐いた。声は消え入りそうだったが、確かにそこにあった。四人が視線を交わす。ジュンが歯を食いしばり、頷く。セラは唇を結び、地図にもう一度点線をなぞった。リクは胸の中で何かが固まるのを感じた。彼は自分の掌にある玻璃拳が、仲間の意思で初めて意味を持つのを、肌で知っていた。
だが、合意の代わりに求められたのは、ただひとつの条件だった。彼らは地下に降りるために、古い排水管の格子をこじ開ける必要がある。その格子は外側から新しい溶接痕が見える。つまり、誰かが最近点検をしている可能性がある。封鎖都市側の手か、それとも――。もし都市がその通路を監視していれば、進入は発覚する。だが、選択できる時間は短い。監視機が群れを囲う速度が、確実に早まっていた。
「最初に入るのはリクでいいか?」ジュンが提案する。短兵急に状況を打開するために前後を定めるのは合理的だった。前に体を突っ込んで見張りを行う。だが、その提案がリクの肌を針で刺すように痛ませた。彼は手を上げ、首を振った。
「無理だ。俺が最初に体を出したら、反応系に痕跡が残る。監視がそこを拾えば、効果は敵側に傾く。代わりに、セラ、ジュン、カズ、三人で先に入ってくれ。ぼくは外で見張る。合意はここでする。三人が同意すれば、その合意を元に作戦を共有できる」
眉を寄せる三人を前に、リクは自分の内側の欠けを感じた。使えないなら指揮にも役割を持てない。だが、それこそが彼の言葉の真意だ。玻璃拳は単なる武器ではない。共同の意思を結晶化する触媒だ。誰か一人がそれを独占すれば、うまくいくのは、いつだって封鎖都市の側である。
「分かった」セラが最初に口を開いた。「合意だ。私たち三人で入る。リクは外で待機。子どもは僕が抱える」
カズの手から毛布が渡される。彼の瞳が一度熱くなる。ジュンは短く頷き、刃を鞘に押し込んだ。三人は肩を寄せ、地図を囲む。ネオンが路地の壁で破れて、彼らの影を長く伸ばした。四つの影が一点に集まり、ピンと張りつめた線を作る。
その瞬間、リクはやけに鮮明な周囲の音を聞いた。監視機の羽根のビート。民衆の囁