雷装輪の整備士と零時隊 第6話「第5章」
作業台の上で、油と古い紙の匂いがいつもより薄くなっていることに気づいたのは、掌で小さな部品を回しているときだった。ハルカは眉を寄せ、部品から顔を上げた。壁掛けの古時計が二つ、三つと短く鳴る——けれどその音は、いつものように肌の奥まで震えるほど鮮明ではなく、厚いカーテン越しに聞こえるように遠かった。
作業台の上で、油と古い紙の匂いがいつもより薄くなっていることに気づいたのは、掌で小さな部品を回しているときだった。ハルカは眉を寄せ、部品から顔を上げた。壁掛けの古時計が二つ、三つと短く鳴る——けれどその音は、いつものように肌の奥まで震えるほど鮮明ではなく、厚いカーテン越しに聞こえるように遠かった。
「またか?」
カイトの声が背後から入ってきた。大きくて乾いた声だが、ハルカには少しだけ反響が薄く感じられた。目を細めると、カイトの唇の動きが先に見え、音が遅れて届くように思えた。心底嫌な感覚だった。作業台に置かれた雷装輪——金属の輪に刻まれた細かな稜線が、薄い青で微かに光っている。ハルカは手を差し伸べたが、指先が触れる前に、輪の光が彼女の掌の上に小さな欠片を残したように感じた。冷たく、そして早く消えかけている。
「大丈夫?」とユイが近づいた。白いエプロンのポケットから、小さな封筒を取り出して差し出す。薬か何かだろうか。匂いを嗅ごうとしたが、コーヒーの苦味もシナモンの香りも、ぼんやりとした気配に変わっていた。
「うん、たぶん。ただ、音が遠い。匂いも薄い」とハルカは答えた。口の端にわずかな金属味があって、舌先にうまく言葉を乗せられない。
「それ、前に使ったときからの蓄積だよね」コタロウが作業台の向こうで顎を擦った。いつもながらの冷静さで、手にはばらばらになったギアがあった。コタロウは雷装輪の仕組みを知り尽くしている。彼の目は、輪の側面に刻まれた微かな焼け跡をじっと見つめた。
ハルカは、輪を見つめ返した。彼女が一度だけ、ほんの短い間にそれを回して共有した作戦——仲間三人と同時に動き、避難路を一斉に開けたあの夜。市民 fifteen 人を救った。だが代償も現れた。あのとき以来、右耳の高音が抜け、夜更けに火の匂いを感じられなくなった。使うたびに、感覚のどこかが薄れていく。
「でも、北の避難路に零時隊が詰めてきてるって通信があった。時間がない」リ ン が声を荒げた。短い黒髪を振りながら、リ ンは端末を手のひらに押しつける。画面の数字が赤く点滅している。
「それを止められるのは、君の輪だ。ハルカ」カイトが言った。彼の視線は真剣だった。輪を見ずに、直接ハルカの目を見つめている。
「わかってる。でも、また使えば——」言葉が途中で切れた。どの感覚を失うのか、どれくらいの範囲で薄れていくのか、確かめる術がない。コタロウは資料を引きずり出した。薄いプラスチックのフォルダをめくると、前回の作戦の録画と解析ログが入っていた。画面に映るのは、混乱した交差点、走る被災者、そして雷装輪を回すハルカの掌のクローズアップ——その瞬間、画面が歪み、周囲の無線信号に奇妙な干渉が走ったことが、解析波形となって表示されている。
「ここを見て。輪は“共有”を媒介する。だが同時に、近接する思考や信号とアンカリングしてしまう。合意が取れていない対象が近くにあると、リンクはそっちにも伸びる」コタロウの指が波形の中のノイズを指した。「あのとき、避難民代表が動けなかった。合意には至らなかった。輪は近くにいた警備ドローンの自律回路に触れて、彼らの判断を先回りさせてしまった。結果として敵の動きがわずかに早まり、二人を失った。」
ユイの顔が固まった。リ ン は拳を握りしめる。
「つまり、強引に使えば敵側に利する可能性があるってことだな」カイトが短く吐いた。
「それに、単独使用はダメだ。ハルカ、一人で回したとき、感覚の代償は跳ね上がった。昨日の診断でも、聴力と嗅覚の低下が進んでる」ユイが補足した。彼女は医療データを淡々と読み上げる。数字は容赦なく、そして静かに恐ろしかった。
ハルカの胸の中で、救うべき顔たちの列と、失うかもしれない日常の輪郭が並んだ。彼女は輪に触れそうになった手をぐっと引っ込める。掌に残った冷たい光の欠片が、皮膚の下で小さく震えた。
「一つしかないんだ」ハルカは小さく言った。「これがあれば確かに、一度の計画だけは完璧にできる。でも完璧すぎると、相手も飲み込んじゃうかもしれない。合意がないと、輪は盲目的に広がる。」
「じゃあ、どうするんだ?」リ ン が前に出た。目が赤い。守られた人々の顔が迅速に浮かぶ。「今止めたら、あの通りの人たちが全滅するかもしれない!」
「止めないとハルカが壊れる」ユイの声は静かだったが堅い。
カイトは拳を握り、机の縁に付けた掌が微かに震えた。彼は決定を下すように輪を見つめたが、すぐに首を振った。「決めるのは俺たちじゃない。守るべき人たち、そしてハルカ自身がどう決めるかだ。ただし、時間は無い。」
言葉はそこまでで、そのあとは沈黙が続いた。外から遠く、低いアラームが反復するが、ハルカにとっては鼓動のように遅れて聞こえた。彼女は西日に照らされる作業台の端に座り、輪をそっと手中に取った。冷たさが掌のひらを刺す。
「一つ提案がある」コタロウが言った。「君がひとりで抱え込むんじゃなくて、僕たちが市の代表と会って正式な“同意”を得る。合意があれば輪は安全に働く可能性が高くなる。強引に押し通すよりはマシだ。」
「でも、その時間を零時隊は待ってくれないだろう」リ ン が言い返す。
コタロウはフォルダを閉じ、立ち上がった。「それでも、一度でも共同で準備すれば、輪を使う確実性は違ってくる。ハルカがまた感覚を削ってまで単独で回す必要はない。僕たちで合意の場を作るんだ。」
ハルカは手の中の輪の稜線をなぞった。掌に残る光の欠片が、指先の動きに合わせてわずかにきらめいた。心臓が瞬間的に速くなって、耳の奥でピンと高い音が鳴った。反射的に耳を塞ぎたくなったが、ユイがそっと手を伸ばしてきた。彼女の指先がハルカの手首に触れたとき、ハルカははっきりと、ユイの呼吸音を感じた。近くにいる。存在が確かだ。
「君の判断を尊重する」ユイは言った。「でも、私たちは君を見捨てない。合意を取るために動くなら、私は医療支援をつける。コタロウは技術面で動く。カイトは交渉を——」
リ ン が肩を張った。「僕は現場を抑える。避難民を一時的にでも動かしておけるなら、それだけ時間を稼げる。」
その瞬間、ハルカの胸の中で何かが溶けた。仲間たちが自律的に役割を分担する。誰かが命令されたわけでもなく、自分の意志で前に出た。彼らの瞳にはそれぞれの覚悟があった。ハルカは一瞬の安堵を感じたと同時に、決断の重さが戻ってきた。
「私……」ハルカは小さく笑い、輪を作業台の中央に戻した。「今は使わない。みんなで合意の場を作ろう。私が一人で壊れるまで使うなんて、私は望まない。」
コタロウが頷いた。カイトは無言で輪を見つめたが、やがて目に覚悟の色をつけた。「いいだろう。だが、僕は一度だけ行ってくる。市の避難所代表に会ってくる。正面から『合意』を取りに行く。君がいなくても、君の輪を使わせてもらえるかどうかを、僕が握ってくる。」
「無理はするな」ハルカは言ったが、その声に震えはなかった。彼女は輪を手に取ると、慎重に小さな木箱を取り出した。表面は古い漆で磨かれ、蓋に小さな蝶番が付いている。箱は何度も開け閉めされたらしい、角が滑らかに削れていた。ハルカは手の中の