雷装輪の整備士と零時隊 第27話「第二部幕間」
工房の窓越しに、薄い朝靄が通りを洗っていた。葉山蒼は作業台の上で雷装輪を転がすように回し、指先の冷たさを確かめる。金属の縁が皮膚に触れると、微かな振動が伝わってくる。振動はいつもより少し長く残り、掌に小さな痺れを残した。
工房の窓越しに、薄い朝靄が通りを洗っていた。葉山蒼は作業台の上で雷装輪を転がすように回し、指先の冷たさを確かめる。金属の縁が皮膚に触れると、微かな振動が伝わってくる。振動はいつもより少し長く残り、掌に小さな痺れを残した。
「またか」と、水谷瑠がやや呆れた声で言う。小型の燃焼器を片手に、彼女はコーヒーを淹れようとしていた。湯気が立ち上るが、蒼はその湯気に顔を近づけても香りを拾えない。鼻孔に入るはずのコーヒーの苦味が、すり抜けるように消えた。
「匂い、しない?」戸田陽斗が訊ねる。いつもは陽気な彼の目が、今朝はただ真剣だ。陽斗は昨日の作戦で端っこを走り回った若者で、蒼の能力が生んだ抜け道を身をもって体験している。
「うん。高い音も、左側から少しだけ遠い」と蒼は答える。言葉にするたびに、自分の声がどこか遠くで返ってくるような気がした。耳鳴りが低く持続している。指先の感覚はまだ薄く、工具のねじ山を確かめる感触が曖昧だ。
佐倉誓が作業台の向こうから腕を組み、冷たい目で蒼を見た。「使いすぎだ。次に何か起きたら、その代償は取り返しがつかない」
「代償は分かってる」と蒼は返す。雷装輪の藍色の縁が僅かに光を反射し、薄い稲妻の模様が指先を走る。それは彼が前世で感じた、現場の危うさに似ていた。だがその現場で「守る」ために使った腕と同じものが今ここにある。
高城紗夜がラップトップの画面を閉じながら近づいてきた。画面の反射が彼女の眼鏡にちらつき、そこに浮かぶのは零時隊のスキーマの断片である。紗夜は情報屋だ。眉を寄せ、蒼に向かって小さく吐息を漏らす。
「外に、また小さな動きがある。物資受け渡しポイントで詰まりが出たって連絡が来た。避難民がそこで足止めされてる。零時隊の検査が通らなければ次の移動が無理だって」
陽斗が即座に身を乗り出す。「行くなら今だ。塞がった路地があれば、また…」
蒼は雷装輪に視線を落とした。輪は冷たいが、内部で静かに脈を打っているように見える。「あの輪を使えば…たぶん、一つだけ、短い作戦なら――」蒼は言葉を切る。言い淀むと、誓が即座に遮った。
「前と同じことをするつもりか。合意はどうする、共有のプランはどうする? 仲間全員の同意なく使えば、その作用は敵にも及ぶ。敵が被害を受けるだけじゃない、被害によって何が生まれるか分からない」
蒼は拳を握りしめる。昨日、彼は仲間と共有した作戦で人々を抜け道へ導いた。その成功の代償として、感覚の欠落は確実に増えていった。味覚の消失、遠くなる音、手触りの鈍り。使うたびに、それは身体のどこかを奪っていく。
「でも、向こうで止まってる人たちがいる」紗夜が言う。「情報だと、検査で待たされているのは高齢者と子どもが多い。零時隊の配置が変われば通れるかもしれない。外からのちょっとした混乱で十分なのよ」
陽斗が前のめりに、「やらせてくれ、蒼。俺、合意する。みんなに声かける。誓さんも?」と尋ねるが、誓は首を横に振った。
「いいや、俺は反対だ。自分の体を賭けてまで一つの抜け道を作る理由が分からない」誓の言葉に、場の空気が固まる。合意は割れていた。
紗夜はためらいなくラップトップを開き、画面を回して蒼に見せた。そこには、零時隊の検査ログの断片と、昨夜の混乱のタイムスタンプが並んでいる。「見て。昨晩、検査局のレポートに異常な同期波形が記録されてる。このパターン——あなたが装輪を使ったときの波形と似てる」
蒼はスクリーンに近づき、波形の山を追う。青白い線がぎこちなく揺れる。胸の中で何かが締め付けられた。もしこの技術が彼のものと同じ源を持つのなら、零時隊と雷装輪の間に、単なる偶然以上の繋がりがある。
「もしここで待っていて、誰かが倒れたら?」陽斗が短く言う。「合意が揃わないって…その瞬間に選べるのは目の前の人間でしょ。誰かが守られないなら、俺は…」
彼の声が震える。言い終わる前に、蒼は手元の輪を強く握りしめた。金属が掌に食い込み、冷たさが刺さるようだ。彼は決断の重さを指先で受け止めた。
「俺がやる」蒼は静かに言った。声は低く、揺るがない。誓は目を見開き、紗夜は画面から目を離した。陽斗は安堵と恐れが混じった笑顔を浮かべる。
「合意は揃ってない。だから——」誓が抗議の声を上げたが、蒼は続ける。
「合意は揃ってなくても、ここにいる全員の命の代わりに誰かを見捨てるわけにはいかない。俺が一度だけやる。どんな影響が敵にも出るか、俺が責任を取る」
蒼は輪を額に近づけ、目を閉じる。輪から冷たい微光が蒼の顔を照らし、髪の毛一本一本が稲妻に縁取られるように見えた。周りの空気が一瞬、濃くなる。蒼は心の中で具体的な設計図を組み立てた。路地の信号機を十秒だけ不規則に同期させ、配達トラックのエンジンを瞬間的に始動させる。視覚的錯誤を与える霧のような演出を作り、検査隊の意識を十秒間だけ引き戻す——その間に人々を通す。
紗夜と陽斗は目を閉じ、同意を口にした。誓は首を振ったままだった。合意は完全ではなかった。
雷装輪が唸った。金属が掌で震え、耳の奥で低い共鳴が鳴る。蒼は一気に息を吸い込み、身体の中に溶け込むような力を引き出した。波形が現場へ走る——それは計画されたものではあるが、完全な「共有」ではない。輪は蒼の一人の意志を媒介し、その影響は手の届く範囲に、意図せぬ広がりで波及する。
路地の先で、零時隊の小隊が一斉に身体を固くした。彼らの視界が一瞬、歪み、まるで誰かが場面を引き延ばしたかのように時間が遅くなった。呼吸は浅くなり、足が地面に根を張ったように動かない。蒼の指は冷たくなり、耳鳴りは鋭く高くなる。彼は自分の中で何かが引き抜かれるのを感じた。視界の端で、湯気の向こうの物資の山が人々の列を守るかのように見える。
十秒が、永遠のように感じられた。蒼の中で、音と匂いと温度が順番に消えていく。最初に甘味が消え、次に高周波の音が落ち、最後に掌の温度がなくなる。十秒後、輪の光が消え、零時隊の隊員は膝をつき、肩で息をする。彼らの表情は朦朧とし、何かを忘れたような目だった。遠くで、避難民たちが騒ぎ出し、狭い路地にすばやく押し込まれていく。陽斗が叫びながら先導し、人々を無事に通した。
蒼は膝をつき、頭を押さえる。世界が薄い膜に覆われたようで、指先が工具の冷たさを確かに「知る」ことを拒んでいる。紗夜が彼の肩に手をかけた。掌の感触は確かだが、蒼の返す握りは弱い。誓が廊下に立ち尽くし、顔をこわばらせている。
「敵にも…作用したか」誓の声は低かった。責任を問うよりも、驚きと恐れが混じっていた。
紗夜がささやく。「データはまだ取れてないけど、さっき起きた現象の波形が昨日のと似てる。だけど、その広がり方——合意がないときの波形は意図せぬ対象にまで届く。あなたの言った通りよ」
蒼はゆっくりと立ち上がろうとしたが、ふらつき、壁に手をついた。世界は色を少し失っていた。机の端の缶ペンの冷たさが、以前ほどは感じられない。口に含んだ水が、ただの湿り気に過ぎず、喉を潤す以上の情報を与えなかった。
陽斗が笑おうとして、唇を開いた。しかし笑いは短く、すぐに消える。「成功したんだ。でも…蒼、顔色が変だぞ」