雷装輪の整備士と零時隊 第14話「第一部幕間」
工房の窓は朝の薄明かりを通し、錆びた工具の影を長く落としていた。鳴海悠は作業台に肘をつき、雷装輪を布で包みながらゆっくり回した。輪の内側で微かな青い筋がうごめき、布越しにも冷気が伝わってくる。指先は既に反復する使用の痕で痺れ、金属の輪を握る力がいつもより頼りないのを自覚した。
工房の窓は朝の薄明かりを通し、錆びた工具の影を長く落としていた。鳴海悠は作業台に肘をつき、雷装輪を布で包みながらゆっくり回した。輪の内側で微かな青い筋がうごめき、布越しにも冷気が伝わってくる。指先は既に反復する使用の痕で痺れ、金属の輪を握る力がいつもより頼りないのを自覚した。
「ずいぶん静かだな」と、椎名彩がドアのところで声を落とした。コーヒーの紙コップを両手で温めながら入ってきた彼女は、洗い髪を後ろでざっくり結んでいた。顔には昨夜の緊張の名残が残っている。
「零時隊のパトロール時間だろ。外は動きがないほうが怖い」と悠は答え、輪をテーブルに置いた。輪は手を離すと軽く震え、わずかな稲妻のような光が表面を走る。それを見つめると、胸の奥がまた冷たくなる。
久遠凪が息を切らして入ってきた。紙の切れ端を開き、文字を指で追いながら「連絡が回ってきた。市のセンサー部が『雷現象由来の電磁波』を警戒してるって。観測地点が一つ、避難路の北側にある」と言った。言葉に笑いはない。彼女の眼には、作戦の余波が具体的な数字と場所になって示された恐れが映っていた。
「……つまり、俺たちの最後の使用がどこかで検出された、と?」悠は輪を軽く撫でる。音が歪んで聞こえた。眼鏡の縁に曇った息のように、自分の鼓動が遠くなる。
「可能性が高い。観測の時刻が、君たちが避難ルートを操作した時間と一致するらしい」と久遠が続けた。「問題は、どう扱われるかだ。零時隊はセンサーに基づいて動く。彼らはデータを見て、そこへ向かう」
工房には一瞬の沈黙が落ちた。鈴虫のように、雨の後の空気の匂いが薄く漂う。悠はコップの縁で唇を潤したが、コーヒーの苦味がぼんやりして味がわからなかった。感覚の喪失は確実に進行している。
「俺たちがやったことは正しかった」と椎名は言った。声に揺れがある。彼女は東電時代の配電盤を叩いた手つきで、輪を見つめる。「でも、それがここへ零時隊を呼ぶなら……」
そこへ、奥田迅が勢いよく顔を出した。若く、血気盛んな彼は昨夜の単独行動で隊の包囲にかかりかけた当人だ。額にまだ擦り傷がある。「隠れてるだけじゃだめだ。隠し続けるのは時間稼ぎにしかならない。向こうが来るなら、向こうの目を逸らす別のやり方を試すべきだろ」
「例えば?」と杉本良が椅子から顔を出した。年配で落ち着きのある彼は、整備班のリーダー的存在だ。壁の地図に指を滑らせる。彼の声には計算があった。
迅は輪に手を伸ばした。躊躇がない。悠がその手を制した。「お前、勝手に触るな」と悠は言った。指先が冷たい。輪は静かに反応し、指の間で小さな電光を描いた。
「ちょっとしたテストだ。街灯の同期だけを触ってみる。排他的に使うわけじゃない。合意さえあれば一度だけ、作戦が現実になるんだろ?」迅の口調には焦りと興奮が混ざっていた。彼は守るための行動を単純に、しかし強く望んでいた。
悠は眼を閉じた。共有の儀式はこれまでも緻密に行ってきた。全員の掌が輪の金属に触れ、意志を言葉にして合わせる。合意を蕩けさせるわけにはいかない。そうでなければ能力は予測の外で働き、不確かさを敵味方に投げつける。だが、昨夜見た小さな家族の列が頭を離れなかった。子どもの顔が、坂道を必死に下るシーンが、悠の胸を抉る。
「一人の合意でもいいと聞いた」と迅は付け加えた。「ほら、使い方の条件は認識してる。単独で使えば感覚を失う。俺は手足が動く。交換条件としては安いもんだ」
その言葉が、暗いうねりを作る。悠は自分の体の中に、以前にはなかった怖さを感じた。合意の行使は、仲間の意志を尊重すると同時に、仲間の判断を超えれば効果が敵へ向かうという性質を持っている。それは彼らの抑止策であり、ブレーキでもあった。
「ここで決めることだ」と杉本が言った。「合意の有無、影響範囲を定義しよう。だが、実験をするなら安全なターゲットに限る。外部に影響を及ぼす可能性があるなら、やめろ」
椎名が小さく笑ってから、輪に両手をかけた。「簡単に同意するつもりはない。だけど、もしやるなら私は一つ条件がある。あの北側のセンサーへの痕跡を消す方法を考えてから。検出されるままだと、零時隊は確実に来る」
久遠は腕組みをした。「その痕跡がある、って言われてるんだ。だが痕跡の有無を調べるには、センサーに直接触れる以外にない。市のデータベースを一度だけ覗く必要がある」
「行けるのか?」と悠が訊いた。彼の声は遠く、かすれている。耳鳴りがひどく、遠くのサイレンがワカメのようにぼやけて聞こえた。
久遠は一息吐いた。「私に接触先がある。以前、公共管理部にいた奴がいる。顔が利く。だがそれを使うにはリスクが伴う。零時隊に見つかれば、彼がどんな目に遭うか――」
言葉の途中で、輪が突然強く震えた。誰も触れていないのに、内側の光が波打ち、青い閃光が工房の天井に小さな影を落した。椎名が飛び退き、コップを落としそうになる。空気が厚くなり、悠の鼓膜がキーンと鳴って視界が一瞬白く滲んだ。
「なんだ、今のは」杉本が低く言った。
悠は輪に手を伸ばした。掌に触れた瞬間、感覚が点で切れた。世界は音のない水槽の中になり、光だけが鋭く差す。匂いは消え、温度は均一になった。心臓の鼓動だけが内側で速く響いた。怒りとも恐怖ともつかない感情が胸を締め付けた。
「無理はするなって言っただろ」椎名の声が、遅れてもたらされたように、薄い膜越しに聞こえた。悠はその声に手を伸ばしたが、届かない。
掌の痛みとともに、彼は輪を引き離した。光はすぐに収まり、空気も戻った。だが、何かが変わっていた。聴力の一部は戻らず、コーヒーの苦味はどこか遠くへ行っていた。匂いはまだ弱い。
「使ってもいないのに?」久遠が眉を寄せる。「自発反応か?」
「違う」と悠は答えた。胸が冷たかった。「反応したのは、僕の内側だ。触れたときに、輪が僕の望みを先読みした」
その言葉に、皆が顔を見合わせた。工房の四方の壁に貼られた地図が、静かに夜明けの光を受けていた。静寂の中、遠くでホーンが一度低く鳴った。
「それじゃ、検出の件と関係あるかもな」と杉本が言った。「もし輪が外部に信号を出すか、自分の使い手の意図を拡大解釈するなら、それが観測の原因になり得る。つまり、ただ使うだけで痕跡を残すということだ」
「使用の痕跡を消す手段を探す」と椎名が決めたように小さく頷く。「私がセンサーのログを見てくる。消せるかどうか、確かめたい」
久遠がすぐに言った。「一人で行くと危険だ。零時隊に見つかれば、私たちの接触先が危ない。だが、誰かが行かないとログは変えられない」
奥田が前に出た。「俺が行く。単独で行って変えられなければ、引き返す。見つかっても戦うより逃げる。意志はある」
杉本は奥田を睨んだ。眼差しは冷たく、だがそこに恐れはない。「無茶はするな。だが――」と彼は言葉を切った。「誰かが行かなければ、全員が頭を下げて避難するだけだ。選択肢を奪われるのは、あいつらの狙いだ」
悠は輪を握った。掌は軽く震え、金属は冷たい。感覚の欠落は進行している。使用の代償ははっきりしている。だが、椎名がログを調べることを選べば、彼らは痕跡を消す方法を見出せるかも