風を閉じる漁師は救済の代償を払わない 第27話「第二部幕間」
波音が急に止んだ。――それは、海そのものが息を引き取ったような静謐だった。桟橋の上、潮守蓮は濡れた膝を抱えて座り、掌の端に残る潮の匂いを探した。指先にあるのは、小さな銀のリング。幼いころの約束の証だと信じていたはずのそれが、いつの間にか軽く、輪郭がぼやけている。触れても、ぴたりと結び付いていたはずの記憶が指の間をすり抜けていくようだった。
波音が急に止んだ。――それは、海そのものが息を引き取ったような静謐だった。桟橋の上、潮守蓮は濡れた膝を抱えて座り、掌の端に残る潮の匂いを探した。指先にあるのは、小さな銀のリング。幼いころの約束の証だと信じていたはずのそれが、いつの間にか軽く、輪郭がぼやけている。触れても、ぴたりと結び付いていたはずの記憶が指の間をすり抜けていくようだった。
「蓮、どうした。顔色が悪いぞ」
背後から来た声に顔を上げると、イオが無造作に風呂敷をほどき、濡れた布と古びた灯油ランプを差し出した。元兵士の大柄な肩がぶるりと震え、夜の寒さが彼の息を白くした。ユリアは後ろで、腕の中に小柄な少女を抱いていた。少女の頭には包帯。濡れた髪から海水の匂いがした。
「妹のミナを助けてほしい。お願い、蓮さん」
ユリアの声は震えなかった。どこか凍りついた強さがあって、蓮はその眼差しを避けられなかった。ミナは数日前に統風府の救済券を受けた人間に巻き込まれ、呪いの症状で呼吸が乱れるようになっていた。ユリアは小さな拳で蓮の袖をつかみ、離れようとしない。
蓮はゆっくりと立ち上がり、桟橋の先端へ向かって一歩ずつ歩いた。足元の木板は塩でざらつき、薄く光っている。風は止まったまま。空の端に見える灯台の光だけが、微かに海面を引き裂くようにして揺れていた。
「……証束は使える。けど、手段があるからといって使っていいわけじゃない」
彼はそう言って、ユリアの手を軽く握った。掌は冷たかった。ユリアの指に残る力が、痛みと諦めの境界線を震わせる。イオはそのやり取りを黙って見つめていたが、やがて口を開いた。
「このままじゃミナの命が縮む。統風府は救済券で人を管理してる。蓮が証束で一つ、真実を紡げば、少なくとも症状は抑えられるはずだ。代償? それが何だってんだ、今は関係ない」
イオの声には熱気があった。熱は正義と間違いを混ぜ、ある種の凶器になりうる。蓮はイオの顔をまじまじと見た。銃弾の跡が右頬にひりつき、過去の戦場が抜けない痕跡として残っている。
「代償は、俺個人の問題じゃない。強制的な救済は、呪いを増幅する可能性がある。そのとき、救われるはずの人がもっと多くの代償を払う羽目になる」
ユリアがこぶしを固める。包帯の下でミナが小さく震えた。夜の冷気が三人と一人の少女を包む。
蓮は深く息を吸い、証束の準備に入った。木箱から薄い紙片と、小さな貝殻を取り出す。貝殻は声を集める器で、紙片には当事者たちの言葉を書き留める。蓮の指先が震えた。彼が紙に言葉を記すたび、周囲の空気が重くなる。声は、遠い港町の嘆き、儀式場で呟かれた祈り、親が子に言い聞かせた嘘、犯された夜の足音――それらが紙の上で重なり合い、濡れた墨の匂いが鼻腔を満たした。
「一つだけ。ユリア。君の妹の声だけでいい。ほかの人の人生を巻き込まないでくれ」
蓮は、ユリアの掌の熱を確かめるようにもう一度手を取った。彼女はためらい、そしてゆっくりとうなずいた。ミナの細い呼吸の音が、まるで潮騒に戻るように耳に入り込む。
蓮は唇を噛み、声を拾い始めた。ミナが病床で呟いた言葉、夢で見た海の色、恐怖で震えた夜の砂利の感触。貝殻に言葉を入れると、風が本当に止まった。空気の震えが消え、世界が一瞬、息を止める。周囲の灯りが微かに落ち、夜の音だけが輪郭を失って膠着する。
その刹那、蓮の胸の奥に冷たい穴が開いた。胸の中の小さな景色――母が編んでくれた青いショール、夏の朝に食べた麦の香り、兄と競った魚取り――それらが一枚ずつ、薄いガラスのように剥がれていく。匂いと色が抜け落ち、彼は指先でそれを拾おうとしても、砂漠の砂のように指の間から零れ落ちた。
「覚えて……いたはずなのに」
蓮の声は小さく、風のない夜に呑み込まれた。紙片に書かれた証言はぐにゃりと光り、やがて一つの像を結んだ。視界の端で、海の色が一瞬濃くなり、ミナの胸の震えが収まった。呼吸の音は安定し、彼女の顔色が少しだけ戻った。ユリアは目を潤ませ、息をついた。イオは拳を握りしめ、ひとつ肩の力を抜いた。
だが、その代わりに、桟橋の向こうの街灯下で何かが蠢いた。黒い粒子が風の中に顕れ、まるで撒かれた煤のように喉元を刺した。どこからともなく、泣き声が高まり、すれ違う人影が地面に倒れ込む。夜の通りで、いくつもの小さな灯りが一斉に暗くなった。
「増えた……」
ユリアの指が、無意識にミナの髪を撫でる。視線は街の方へ釘付けになった。イオの足音が硬くなり、彼は前へ駆け出すつもりで体を動かしたが、蓮がそっと押し止めた。
「わかってたことだ。だから俺は……」
蓮の言葉は終わらない。印象だけが残り、何か大切な約束の輪郭が薄れていた。手の中の銀のリングが冷たく、もう昔の熱を伝えない。記憶の一部が消えたために、蓮の声色はどこか曖昧になっている。彼は自分の名前の末尾にある幼い頃の呼び名すら、ふっと取り違えた気がして、胸が締め付けられた。
「蓮……それでも、君は正しかったのか?」
ユリアは問いかける。答えは、彼女の瞳に映る妹の安らぎと、街に増えた黒い粒子の対照を見れば明らかだった。選択は救いを生み、同時に別の傷を広げる。蓮は拳を握りしめ、その裂け目を見つめた。
「統風府がやっていることは……単に救済を与えるだけじゃない。何かを奪い取り、別の場所に仕舞っている。これと同じ仕組みを、彼らは儀式にしている。証束と、根っこが繋がっている」
イオが指さしたのは、風変わりな紙片だった。ユリアが持ってきた、統風府の回収帳の切れ端。そこには、円形の紋と、風を閉じる描写、そして小さな文字で「記憶の移し替え」と走り書きされていた。蓮はその図を凝視すると、胸の奥で違和感が波のように膨らんだ。彼が失った記憶は、本当に消えたのか。それともどこかに「仕舞われ」ているのだろうか。
「もしあいつらが記憶を箱にして管理しているなら――返してもらえる可能性がある。でも、どんな代償になるかはわからない。儀式の代替は証束と同じか、それ以上かもしれない」
ユリアが立ち上がり、ミナを抱えたまま夜の遠景を睨む。灯台の光がその横顔を切り取り、彼女の輪郭を鋭くした。
「なら、取り返しに行く。蓮さん、あなたは行くべきだ。あなたの力で、取り戻せるなら。私たちは、自力で奪還する。救済券なんていらないって示してやる」
声は震えているが、揺るがない。イオは歯を鳴らし、拳を打ち付けるように蓮の肩を叩いた。
「さあ行こうぜ。統風府の倉に忍び込むくらい、奴らにとっちゃ朝飯前だ」
だが蓮はその場で立ちすくんだ。指の先に感じる空虚は、決定を鈍らせる。記憶を取り戻すことが、ならば消えた大切な断片を取り戻すことが、呪いの性質を変えるキーになるのかもしれない。だが同時に、証束を手にしていた時の自分の顔が、蓮の中でぼやけていく。それを補うために誰かを傷つけることはできない。
夜の海がまた一本の静脈のように、漆黒の帯を伸ばす。蓮は銀のリングを指にはめ直し、深く吐いた。
「選択肢は二つある。——一つは、俺が統風府に協力して、彼らの儀式の一部になって記憶のありかを突き止めること。代償は明示されない。二つ目は、君たちが自分たちの手で踏み込