名前を焼く踊り子は呪いの条件を変える 第6話「第5章」
紙が燃える匂いが、家の奥まで浸み込んでいた。燻した木の香りと、蝋燭の煤。外では子どもが帽子を片手に走る足音が途切れ、誰かが遠くで笑った。だがその夜、四畳半ほどの居間の灯りは、ただ一つの焔に支配されていた。
紙が燃える匂いが、家の奥まで浸み込んでいた。燻した木の香りと、蝋燭の煤。外では子どもが帽子を片手に走る足音が途切れ、誰かが遠くで笑った。だがその夜、四畳半ほどの居間の灯りは、ただ一つの焔に支配されていた。
ミレイは踊りの裾をそっと整え、板の間に足をつける。畳とは違う冷たさが、踵に伝わる。膝を曲げて呼吸を整えると、客席代わりの座布団に座る男――名をカドク、年は三十足らず、頬に浅い刀傷が三本走っている――が、小さな紙片を差し出した。紙には鉛筆でぎこちなく書かれた字がある。あるいは、そこには本来書かれるべき「名」ではなく、喩えのような言葉が並んでいる。カドクの手は震えていた。
「……躊躇しないでいい。ここで言うことは全て、あなたが望んでいることだ。強制もしない。」ミレイの声は低く、でも確かに温かかった。彼女は自分の手の平を見下ろす。指先に、火を受けると赤く染まる小さな呪文痕がある。焼いて、名前を燃やす――それが彼女の術だ。しかし今夜は違う。観客は一人だけ。証言は、自発のみ。彼女はここ数週間、それを試していた。広い会場で、知らない群衆の前で燃やすと、呪いは暴走しやすい。だが限れば――彼女は続ける理由を自らに言い聞かせた。
カドクは紙を差し出し、目を閉じた。肩が震える。やがて、吐き出すように言葉が出た。
「あの日、俺は――兄貴を押し止められなかった。村を守るために、俺たちは橋を落とした。だが、落とした先に人がいた。小さな子が、こっちを見ていた。兄貴は『もう遅い』と言った。俺は走れなかった。……名前は、言えない。言葉にしたら、また奪われる気がして――でも、もう我慢できなかった。誰かに知ってほしかった」
ミレイは紙を受け取り、膝に置いた。紙の端に淡い蝋のような粒がついている。彼が握りしめていた時の汗だ。震えながらも、カドクは最後に一言だけ付け加えた。
「救済なんて、要らないと思う者もいる。あいつらは、そう言った」
ミレイは息を整え、膝を解いて立つ。踊りは、言葉の代わりに動く。足首を柔らかくひねり、腰を返し、指先で空気を切る。薄い布の裾が、板の間をなでる音。彼女の背後に置かれた小さな鉄皿に、燃えやすい藁紙を積んである。そこへ、指先でやさしく紙を押し込む。皮膚が熱を感じるその瞬間、ミレイの意思が紙の墨へと触れる。
燃え上がる――黒い字が赤い光の中で歪む。紙はぱちぱちと音を立て、やがて灰になる。その刹那、部屋の空気が一度張り裂けるような静寂に包まれた。ミレイの胸に、他者の記憶の欠片が流れ込む。カドクの見た小さな子の顔、橋の木目、兄の震える声。断片が、自分の血の中に刺さるように入って来る。だが、それは完全な映像ではない。切り取られた写真のように、端が焦げた。真実性は高い。だが、欠落もある。
ミレイは踊りを止めない。むしろ、動きは激しくなる。証言を「束ねる」には、観客の目が一つで十分だった。眼差しが意図的であるほど、記憶の線は滲まず、生々しく保たれる。広い群衆の嘈雑の中で燃やすと、証言は歪み、外汽車の轟音のように彼女の中で反響してしまう。今夜の小ささは、皮肉にも正確さを保障した。カドクの告白は断片的だが真実で、燃えた名前は彼の罪を明確に示した。
燃え尽きた灰を払う。ミレイはすぐに感覚を探る。胸の奥に、ふとした欠落がある。子どもの頃、母が作ってくれたパンのにおい。小さな折り紙を折った時の親指の豆。微細なものだ。すぐに思い出せない。ミレイは舌先で歯茎を噛んだ。代償だ。完全ではないが、記憶はやはり消える。だが、今夜は綻びが少ない。時間差も短く感じられる。彼女はその変化を、希望と呼べるかもしれないと自分に言い聞かせた。
「……ありがとう。」カドクの声が震えた。「誰にも言えなかった。言えば村を追われた。それで、俺は閉じてた。けど、――やっと、軽くなった気がする」
ミレイは、顔を上げて彼を見る。電球の黄色い光が、彼の目に小さく揺れていた。ふと、隣の戸の隙間から、話し声が漏れた。年のいった女の声だ。ミレイは踵を返し、声のする方へ歩いた。戸は半分開いていた。中には、薄掛けだけを羽織る女が座っている。女はミレイに視線を投げつけ、それからカドクを見た。
「あの踊り子か」女はすぐに口を開いた。「ライラと違うな。あの娘は人を救う、というより奪う方だ。自分の意図が優先なの。強制してでも救うと言う。あれは……増幅したわ。私の知り合いが、あのやり方で助けられた。最初は感謝してた。だが、次第に名前が勝手に出るようになった。夜な夜な、張り紙のように、壁に新しい名が浮かんでね。救われたはずの者が、逆に呪いの核になっていった。選ぶ余地を奪えば、呪いは増える――あれを見てから、私は何も信じられなくなった」
ミレイの体温が一瞬、冷えた。女の言葉は早口ではあるが、説得力があった。ミレイは体を捩じって踵の痛みを確かめた。彼女は、遠い記憶の端に、かつての踊り手ライラの顔を思い出した。激しく踊り、救済を叫び、最後には自分の舞台で焼け跡を残した女だ。だがミレイの中のその記憶は、既にページの端が欠けている。ライラが誰かを無理に助けたという話は、どこか朧にしか思い出せなかった。
「強制が増やす、というのは本当ですか?」ミレイは聞いた。声がひどく低い。彼女は、ここ数週間に起きた変化を理解しようとしている。能力を武器にして「救済」を押し付ければ、呪いは拡大する――それは禁忌の一つとして彼女の中に刻まれていた。だが理屈だけではない。実際の事例がある、ということが重要だ。
女はゆっくりと頷いた。「ええ。あの踊り手は、ある商人を救った。商人は救済を拒んでいた。だが彼女は舞台で叫んだ、名前を焼いた。商人は感謝してた。でも、その後に起きたことは誰も予想しなかった。商人の家では、夜ごと名が燃え落ちる音がして、紙が床から湧いて出るように増えた。隣人は怯え、子どもは泣いた。結局、商人は村を去ることになった。救ったはずが、周囲を傷つけたのだよ。本当に救いたいなら、救われる側の意思を残すべきだと、私には思える」
ミレイは戸口の蝶番のきしむ音を聞いた。カドクは俯いた。部屋の隅で、煤が静かに落ちる。
「私のやり方は、違う」とミレイは言った。「だからこそ、客を限定している。自発だけを燃やす。誰かの『拒む』という意志を尊重するために。私は――人を救うことを強制したくない」
だが女は細い目を細めた。「いいわ。でも、試したなら分かるでしょう?代償は残る。どんなに小さくても、記憶は削られる。あなたが大切にしているもの――家族の声、初めての雪の冷たさ。そういうのが消える。救済のために代価があるなら、あなたはそれをどう払うの?」
ミレイは胸の中に、ぽっかりと空いた穴を感じていた。母のパンのにおい。父の手の温もり。どれも、薄くなっていく。彼女は指先で額に触れた。火傷の跡がひんやりと疼く。
「代償は承知している」ミレイは答えた。「でも、私のやり方は代償を小さくするためにある。独りで背負うより、当事者が名を告げることで、真実は蔓延せずに済む。誰かの証言が、他者の判断の材料になれば、強制は不要になる。呪いの条件を変えるのは、そういうことだ」
女は笑ったようなため息をついた