月を裁く鍛冶師は人間でいる

月を裁く鍛冶師は人間でいる 第26話「第24章」

夜寒が鉄の匂いを濃くするころ、斎は炉の前に跪いていた。火蓋の赤が顔をなで、汗が額からしたたり落ちる。錆びた革手袋の感触、金床に響く一撃の余韻が手首に残る。月は満ちていたが、その光は街の中心に据えられた「裁月塔」の銀帯に弾かれ、鋭い縞模様となって床に落ちていた。塔の影が、古い工房の戸口まで伸びてくる。

夜寒が鉄の匂いを濃くするころ、斎は炉の前に跪いていた。火蓋の赤が顔をなで、汗が額からしたたり落ちる。錆びた革手袋の感触、金床に響く一撃の余韻が手首に残る。月は満ちていたが、その光は街の中心に据えられた「裁月塔」の銀帯に弾かれ、鋭い縞模様となって床に落ちていた。塔の影が、古い工房の戸口まで伸びてくる。

「ここで、やるのか」

ミラが低く言った。彼女は斎の背後、荷布を肩に掛けて立っている。夜風に揺れる髪の先に、微かに金属粉が光った。隣にはトアンがいた。かつて王府の兵士だった彼は、軍服の名残を捨てずにいる。今は斎たちの護り手だが、その目はいつも何かを計算している。

「終わらせるには、証が必要だ」斎は素手で冷えた鋼の破片を拾った。表面には薄い緑の光る紋様──呪印の残滓。廃工房の一角で見つけた「技師ベレル」の遺留品の一つだ。彼は聖裁院に囚われ、裁月塔の下で働かされていた。斎はその男の声を、記録を、そして何よりベレル自身が見たものを束ねるつもりだった。

ミラが腕を組んで見下ろす。「強行すると、蜥蜴みたいに増えるってこと、覚えてる? あなたが前に言った。助けたはずの人が呪いになる手足になって……」

斎はうなずいた。胸の内が冷たくなる。証綴──斎の錬り出した能力は、複数の当事者の視覚と記憶を一本に縫い合わせ、呪いの偽りを暴く。だがその代償はいつも現実に爪を立ててくる。真実を増し、救済を急ぐほど、斎の記憶が削れる。しかも救済を強制したとき、呪いは「防衛」を名目に波のように増幅する性質を持つ——聖裁院がそれを制度として利用しているのだ。

「一度なら、やれる」斎は声を震わせないようにして言った。彼の掌が鈍く震える。記憶の影が胸の奥でざわめく。幼い頃、姉と二人で鍛冶場に立った日の熱さ、その感触は、使うたびに遠ざかる。だが目の前の事実——裁月塔が、どのように人々の声を糾弾し、誰を味方とするかを決めたか——を暴く必要があった。

斎は破片を炉の火に差し込んだ。鉄が鳴き、青い火柱が跳ねる。彼は刃を打つように、静かに自分の頭蓋へ手をあてた。能力は言葉ではない。彼の意思と金属と、そこに宿る断片的な証言が交わる儀式だ。斎は口を開き、囁く。

「来い。見たものを寄せろ。言葉を合わすんだ。」

最初の声は遠かった。囚人の低い嘆き。鉄鎖が床に食い込む音。次に、別の声が重なった——作業台から漏れた会話、聖裁官の冷笑、塔の機構が軋む機械音。斎はそれらを一つひとつ指先で撫でるように集め、金の糸で縫うように繋いでいった。金床の震えが胸に伝わる。炎の温度が、どういうわけか記憶の輪郭を溶かしてゆく。

「──見たのは、月を切る装置の試験で、女が泣いた。『これは選択だ』と言われて、手に鉄の輪がはめられた。解説者は笑った。『選べ』と。ただ…ただそれだけだ」

声が一つになったとき、斎の内部で何かが落ちた。真実は透徹していた。裁月塔は「選択」を演出する装置だ。鐘楼の下で示される判決は、実際にはあらかじめ組まれた枠の中から選ばせるための欺瞞であり、呪いを合法的に拡散する儀式でもあった。聖裁院はそれを統治の根幹に据えていた。

しかし、斎が最後の線を引いた瞬間、胸の端で硬いものが崩れる感覚がした。幼い日の姉の笑顔が、砂粒のように指の隙間から滑り落ちた。思い出の一つが――「初めて叩いた刃が、姉の指を守ったときの重さ」――が薄れていく。彼は舌先にある名前を思い出せなくなる。名前はいつも自分を留めてくれるものだった。だが、その一つが消えた。

「斎!」ミラが叫んだ。彼女の声が近づく。斎は目を閉じ、残った記憶の輪をぎゅっと掴む。指先に残るのは冷たい鋼の感触と、ミラの手の温度だけだ。

「大丈夫か?」トアンがそっと近づき、肩を叩く。斎はうなずいた。だがうなづく理由が以前ほど確かではない。彼は知っているものを失いつつ、だからこそ知るべきものを守らねばならない。矛盾が胸を締め上げる。

そのとき、遠くから鐘が鳴った。裁月塔の下で、聖裁官たちが拡声器を手に高声で命令している。無遠慮な鉄音とともに、衛兵の足音が道を満たした。監視が動いたのだ。彼らは囚人の救出を阻止し、あわよくば「反逆者」を見せしめにするつもりだろう。

「行くぞ」トアンが穏やかに言うが、言葉に殺気が混じる。ミラは斎を見下ろし、決意の色を濃くした。「私は押し切る。出来るだけ多くの声を拾う。あなたは……あなたは、私たちが選ぶ理由を証明して」

斎は首を振りかけて、止めた。だがミラの手は既に動いていた。彼女は荷布から小さな銀盤を取り出すと、それを空にかざした。盤の縁に細かい文字が刻まれている——村々が密かに打ち合わせて作った「選択の片(かけ)」の試作だ。ミラはそれを叩きつけるように地面に置き、そっと言う。

「私たちはあなたを守りたい。あなた一人に全部を背負わせない。だけど、分け合うか、強行か。仲間たちに頼むか、それとも──」

言葉がそこで途切れた。斎の瞳に、ふと見知らぬ記憶が差しこむ。薄い暖色の布、子どもの手、誰かの歌声。だがその断片は彼のものではないとすぐに分かった。能力を使うたびに、斎は他者の証言と彼らの記憶の「影」を受け取る。今見えているのは、遠くの村の老女が昔失った息子の記憶だった。彼女は自分の喪失を証言として差し出していたのだ。

「分散できるかもしれない」斎は息を漏らした。証綴は当事者の証言を束ねる能力だが、理屈の上ではその「紐」に複数の手を添えれば負荷を分散できる可能性がある。問題は、それが出来るかどうか—そして出来たとして、何を失うかを誰が決めるのかだった。

「どういうことだ?」トアンが眉を寄せる。

「共同で証を抱えることが出来るなら、僕一人の記憶を全部渡す必要はない。だけど――」斎は言葉を切った。胸に空いた穴が、また一つ記憶を引き裂く。代わりに差し出されるのは他人の喪失と痛み。共に抱えるということは、誰かが自らの一部を切り出す覚悟を必要とする。

ミラは銀盤に手を置いたまま、夜空に向かって叫んだ。「村の者たち、聞け! 選ぶか、強行か! あなたたちの声を貸して!」

鈍い足音が近づいた。聖裁院の先遣隊だ。彼らは厳格な顔つきで、火の粉の舞う工房へ入ってくる。先頭には聖裁官の一人、リュー=カルドが長身で立っていた。彼の眼には慈悲の微笑みがない。

「斎、手を引け」リューは冷たく言った。「証拠とやらを弄ぶな。秩序はこうして守られる。救済はある——だが手順を踏め」

「救済?」ミラが鋭く吐き捨てる。「あなたたちは選択を道具にして、人を縛っているだけだ。真実を隠すために祈りを利用するな!」

言葉は火花となり、工房の空気を焦がす。だが戦いの火蓋はまだ切れない。トアンが斎の肩に手を置き、低い声で言った。「もし強行したら、呪いは反動で増える。無関係の者たちが巻き込まれるだろう。それでもやるか」

斎の体は硬直した。自分が持つ刃は本当に誰かを守るものなのか、それともただ苦しみを増やすだけなのか。彼の能力は真実を力に変えるが、その重みは記憶を削る。強行は近隣の無辜を呪う可能性がある。だが放置すれば無数の声が永遠に縛られ続ける。

外の路地から、子どもの泣き声が聞こえた。薄闇の中、誰かが小さな