月を裁く鍛冶師は人間でいる

月を裁く鍛冶師は人間でいる 第22話「第20章」

夜の濡れた石畳を、紙片と小さな銀色の欠片が手から手へと滑るように渡った。欠片は薄く、月光を受けると刃のように冷たい光を返す。指先に伝わる冷たさの中に、わずかな鉄の匂いと、何かひとの記憶を削った匂いが混じっているようだった。

夜の濡れた石畳を、紙片と小さな銀色の欠片が手から手へと滑るように渡った。欠片は薄く、月光を受けると刃のように冷たい光を返す。指先に伝わる冷たさの中に、わずかな鉄の匂いと、何かひとの記憶を削った匂いが混じっているようだった。

「ここに来てくれるとは思わなかったよ、梓」

和泉ナツキの声は低かった。襟を立てた外套の裾に、配られた紙が幾枚か挟まっている。彼女の目は紙の束よりも、梓の手の中の小さな欠片を注視していた。欠片の表面には、彼が刻みつけた小さな紋がある。それはいつもの工具の跡でもあり、彼の能動の痕跡でもある。

「若尾の一件、まだ迷いがあるらしい。取りこぼしは許せない」

梓は欠片を掌で指先に転がした。金属は冷え、だが彼の掌の中で微かに振動した。能力が喚ばれる前ぶれだ。彼が「束ねる」と呼ぶ作用。呪いが見せる残酷な断片を、当事者の証言として紡ぐ――それは声を外套の内側に潜ませるようにして、聴く者へ投影させるための道具になる。だけど、梓はそのたびに何かを失う。ひとつ、またひとつと、自分のなかの無害な記憶が薄れていく。

「強行するのか?」

真鍬エイジが影の中から出てきた。木製の柄が見える。彼は元傭兵で、今は梓たちの護衛を買って出ている。目の端に浮かぶ不安を、エイジは拳の内で飲み込んだ。

「若尾は、下位の事務官だ。評議の体制には染まり切れてない。だが決定権はない。声を貸してもらえれば、ほかへ伝わる確率が上がる」

和泉が紙を一枚差し出す。そこには若尾の字を模した筆跡で、「──私は見た。あの日、評議は命を秤にかけた」と書かれているように見える。が、その線は不完全で、時折インクが溶けかけた欠片のように途切れた。

「本人の言葉でなければ駄目だ。梓の仕事はそこだろう」

彼女の声には苛立ちと期待が混ざっていた。梓は頷き、欠片を指先で撫でる。金属は微かに温かくなり、彼の脳裏に、若尾の顔が浮かんだ。三十代前半、やつれた頬に常に小さな青い痣がある。権力の重さに押されている人間に特有の、硬直した笑いがある。梓は視線を合わせたことは一度もないはずなのに、その顔は知られているように在った。

「思い出を見せてくれ」

梓は術を告げ、和泉が隣で紙を開いた。彼の右手が欠片を握ると、世界が薄い膜のように震えた。空気が重くなり、遠くの鐘楼の鐘の音が二度、三度と遅れて届いた。能力の発動――それは呪いの残像を拾う作業だ。梓は当事者の視線を借りて、見せられた真実をなぞる。だが同時に、その行為は彼の内部から何かを切り取る。刃物で布を切るように、ひとつの記憶がほどかれていく。

若尾の視界が、梓の頭に流れ込む。評議の会議室。重い蛍光灯ではなく、蝋燭の揺らぎが壁に影を落とす。評議の長老が笑い、若尾は言葉を飲み込み、裏で数人の市民が運ばれていく光景。梓はそれを目撃した瞬間、若尾の胸の奥にある、ひとつの決断の匂いを嗅いだ。息を詰めるような、泥の匂い――それはいつか若尾が子どもを抱いていた古い井戸の匂いだ、と梓は知らぬまま思った。

映像が消えたとき、梓の胸の奥から紐を引かれたような感覚がした。彼の頭のなかで、ある日の昼飯の匂いがふっと抜ける。母親が作ってくれた煮物の匂い、鍋の縁から立ち上る湯気の匂い。口に入れた米の硬さ。梓は咄嗟に舌を噛み、味を確かめようとしたが、そこにあったはずの身体の記憶は薄れていた。目の前の世界ははっきりしているのに、彼の内部の欠落が乾いた穴のように開いている。

「……またか」

エイジが拳を強く握り締める。和泉はその穴に気づいていないふりをして、欠片の表面を指でなぞった。欠片は熱を帯び、若尾の証言を宿していく。紙と金属が、当事者の言葉として結合していく様子は、見ている者に寒気を生む。

「本人の同意は取った。だが、彼は本当にやる気だったのか?」

和泉の問いに梓は首を振る。若尾は半ば強制されるようにして書かされた。評議にとって都合の悪い噂を消すため、若尾は自分の良心と見栄の間で揺れていた。梓の能力は当事者の証言を〝束ねる〟が、それは相手の意志を補強したり、時には強制力を帯びたりする。能力は不完全だ。だが不完全だからこそ、梓はそこに介在できるのだと彼は思っていた――それが間違いだと知るのは、いつも遅かった。

「強く押せば、伝染する。救済を強制すると呪いは増幅する」

和泉の声はまるで誰かに繰り返し言い聞かせるようだった。それは彼女自身が以前、梓に囁いた言葉でもある。梓は欠片を握り締め、空気を撫でるようにして若尾の言葉を繋いだ。和泉は反対もできた。エイジは止めることもできた。だが三人は選んだ。小さな共同体へ、まずは一枚の証言を届けることで波紋を作ろうと。

梓が声を抑えて言葉を紡ぐと、欠片は薄く光り、紙は若尾の字で満たされた。だがその瞬間、遠くで金属のような鳴りがした。梓の耳には、工房の鍛冶場で交わされた最後の会話が流れる。そこには、守るはずの存在の声があった。彼は驚いて手を離した。欠片が床に落ち、鈍い音がした。欠片の表面に、はっきりとした影が残る。

「どうした、梓?」

和泉がひざまずき、彼の肩を掴んだ。梓はふらつきながら、言葉を探す。だがその言葉は彼の口の前で砕け、消えた。彼ははっきりと思い出せない何かを必死に引っ張っていた。幼い頃の、約束の声。守る対象、彼が最も守ろうとしてきた顔。いつも思い出の端にいたその顔が、今は霧の向こうにいる。

「どうやら、今回も代償が重かった」エイジは冷たく笑った。「だが、証言は行く。和泉、ミロに渡せ」

和泉はうなずき、紙と欠片を手早く包む。彼女の顔には決意が刻まれていたが、背中の筋肉は小さく震えていた。ミロは柔らかな足取りで角を曲がり、夜風に紛れて消えた。梓はその後ろ姿を見送ることができなかった。記憶の隙間が鮮やかに痛む。

数時間後、最初の波が来た。若尾の証言が配られた地区の朝、街角の井戸の水面が乱れ、井戸端に集う者たちが一斉に嘔吐した。目に見えない瘴気が立ち上り、一部の者は記憶の一片を言葉にして叫び出す。若尾の告白は、聞いた者の中で「共鳴」し、各自の呪いの記憶を刺激する。あまりに多くの真実が一度に表面化したため、既に脆弱な精神は崩れ、呪いの反応は増幅した。

梓は知らせを受けると、無意識に掌を握った。彼の手には、さっき床に落とした欠片の薄い跡が血のように残っていた。彼はその跡に触れ、何かを思い出そうとしたが、答えは出ない。和泉がすぐに駆け寄り、梓の肩を引いた。

「強制じゃなかった。彼らが聞いたんだ。自分から。だけど……反応が過去よりも強い。呪いの気配が濃くなっている」

和泉の言葉には恐れが混じる。彼女はずっと梓の代償を恐れていた。だがここで引けば、運動は萎む。分散化運動はまだ脆弱で、評議の締めつけは強い。梓は白い歯を噛み締めた。

「俺のせいか?」

その問いに誰も即答しない。エイジは怒りで拳を震わせ、和泉は紙をぎゅっと握る。だが、そのとき、ミロが戻ってきた。彼女の目は血走り、掌にはもうひとつの欠片があった。そいつを梓に差し出すと、彼女は短く言った。

「これ、あなたのだよ。さっきの配達の戻りに拾った。路地の隅で──誰かが落としたみたいに見えた」

梓はそれ