月を裁く鍛冶師は人間でいる

月を裁く鍛冶師は人間でいる 第20話「第18章」

煤けた屋根の隙間から、細い三日月が差し込んでいた。鋳鉄の匂い、冷えた空気に混じる燠(おき)の香り、そして脈を打つように遠くから聞こえる兵の巡回の足音が、佐伯紡の鼓動と同じ速さで響く。彼の前に横たわるのは、薄布にくるまれた小柄な女——リタ。救出の夜、彼女の胸からはまだ月形の痕が淡く光っていた。

煤けた屋根の隙間から、細い三日月が差し込んでいた。鋳鉄の匂い、冷えた空気に混じる燠(おき)の香り、そして脈を打つように遠くから聞こえる兵の巡回の足音が、佐伯紡の鼓動と同じ速さで響く。彼の前に横たわるのは、薄布にくるまれた小柄な女——リタ。救出の夜、彼女の胸からはまだ月形の痕が淡く光っていた。

紡は、鍛冶台に立ち、煤のついた掌でハンマーの柄を確かめる。真鍮の飾りが一つ、冷たい月の形をしてぶら下がっている。いつからだろう、この形を見るだけで胸の奥が疼くようになったのは。彼はそれを握りしめ、記憶を手繰り寄せようとした。だが指先はすべるように、ある一枚の情景を掴み損なう──幼い笑い声の輪郭が、砂に描いた線のように薄れていった。

「やめて、紡さん!」と真由が叫ぶ。彼女は毛布を抱いて、薄暗い石の間を走ってきた。顔には泥と汗。大槻鋼は静かに刀の鞘を押し上げて、部屋の出入口を見張っている。落合紺は小さなランプを差し出し、額にしわを寄せて紡を見つめた。

紡は振り向き、布団に寄りかかったリタを見る。その目は半ば閉じ、けれど確かな力で何かを拒んでいる。彼女の額に刻まれたのは、評議の印に似た月の紋。救出の際に彼女が語ったこと──無理矢理に“救済”が施されれば、彼女の痛みは消えるどころか他者へ波及する。紡はそれを知っていた。だが手が、勝手にハンマーを取ろうとした。彼の能力は「呪いが見せる残酷な真実を、当事者の証言として束ねる」こと。証言が揃えば呪いの構造を可視化でき、刃は入る。だが代価として記憶が薄れ、証言を無理に押し付ければ呪いは増幅する──その規則を、今夜確かめるつもりだった。

紡がハンマーを一振りした瞬間、床板の下で何かが引き裂けるような音がした。外の街路で、子供の歓声が亀裂を伴って消える。窓の外、石畳に並んでいた街灯の光が一つ、パッと暗くなっていった。大槻が咄嗟に壁に手をつき、身体を支えた。

「分かってるだろう、紡。力を独りで走らせるな」落合の声は穏やかだが、宙を刺す刃のように鋭かった。「このやり方は、評議がやることと同じだ。声を取り上げ、救済を押し付ける。それは呪いの器を満たすことになる」

紡は唇を噛んだ。記憶が、さらに遠ざかっていく。リタの顔だ。彼女の手のぬくもり。どれか一つが消えるたびに、それに関連する多数の記憶も同時に薄れていく感覚。父の鍛冶歌、初めて火がついた日、鍛冶屋の鉄屑に混じって見つけた小さな銀貨——全部が一枚の紙に焼き付いた線のように、薄く、ぼやけていく。

「すまない」紡の声は紙屑を擦るように小さかった。「止めるつもりじゃ……ただ、時間がない。あの印が広がり始めたら、リタは──」

「時間を借りるだけじゃない」真由が紡に近づき、掌を彼の肩に置いた。冷たさが伝わる。真由の瞳は強い。「君が担う”記録”は、君一人のものじゃない。私たちがいる。私たちが、君の記憶の縁取りになる」

言葉は暖かく、しかしその重さは紡の胸を締め付けた。彼がいつも恐れていたのは、自分が記憶を失っていくことではなく、失った記憶が誰の手にも残らないことだった。真由が淡々と続ける。

「証言は、当事者の言葉でなければならない。それを無理に抜き取る術は、呪いの道具と同じ。私たちが聞き手になれば、紡が束ねる真実は歪まない。だけど──君の代償は消えない。君は、忘れていく」

紡は目を閉じた。記憶を失うことの痛みは、身体のどこかが切られる痛みに似ている。だが真由が続けて差し出したのは、燃え残りの炭を詰めた鉄の皿と、小さな革冊子だった。革は使い古され、角は擦り切れている。紡のものではない古い鍛冶図と、誰かの走り書きが混じっている。真由がめくった一頁に、彼の顔の描写があった。自分の笑い方をした男の似顔絵。下には――「紡、鉄に記す」そう乱暴に書かれていた。

「これからは毎晩、私たちが君に物語を語る。君が忘れる前に、私たちが君の記憶を形にしていく。私たちの言葉を、君の束ねる証言の一部にする。それで呪いの暴走を抑えられるなら、君はただ失うのではなく、誰かに任せる形で失える」真由の声は震えていたが、決意がそこにあった。

紡は革冊子を取った。紙の匂いが、昔の井戸水の匂いに似ていて、胸の中のどこかがキュッとした。彼はゆっくりと頷いた。決断はしたつもりだった。しかし、その直後、落合が眉を寄せ、窓の外の闇を見やった。

「待て。屋根の上だ、誰かが動いている」

月光の下、屋根の稜線に一つの影が滑った。兵の影。本隊ではない、違う——仕事師のような軽業の足取り。評議の“衛具”だ。彼らは、救出の動きを察してすでに周到に罠を張っている。紡の決断は、時間的余裕を生まなかった。

「奴らは”救済”の試験を早めるかもしれない。リタの印が満たされると、そこからもう一つの儀が始まる」大槻の声は低い。「評議のやり方だ。呪いの波及を狙って、共感と恐怖を同時に広げる。もし彼らがリタを取り戻し、『君たちを救った』と示すなら、村全体を管理下に置ける」

紡は革冊子を胸に抱いたまま、リタの額に手を伸ばす。掌が触れた瞬間、リタの薄い瞼の奥でかすかな震えが起きた。彼女は夢うつつに、短く言葉を吐いた。「私は……月に刃を引かれた。でも、私は……私の言葉で消えたい」

その声が紡の胸を貫いた。自分の能力は、当事者の証言が主体であるときだけ罵詈雑言のような反作用を起こさない。リタの意志がそこにあるなら、紡は束ねてやれるかもしれない。彼は深く呼吸し、ゆっくりと二つの手を合わせた。掌にはまだ煤の粉が残り、手の温度が冷えた月の光と混ざる。真由がそっと隣で息を整える。

紡はリタの言葉を、細い糸を拾うように繋ぎ始めた。彼の内側で、かつて噴き出した呟きがざわめき、集まっていく。過去の痛み、泣声、判決の響き、評議の笑い。紡の能力はそれらを二重螺旋のように編み上げ、見える形にする。だが編み上げるほどに、彼の内部にあるいくつかの像が薄れていった。最初に消えかかったのは、父の手の皺の刻み方。次に、初めて淬(に)ぎをした日の音。紡はそれを感じながらも、しっかりとリタの言葉を形にした。彼の中で、証言はひとつの刀身のように光り、リタの額の月紋をなぞった。

光が刀身から迸ると同時に、窓外の闇が波紋のように震え、遠方の一軒家の明かりが揺らめいた。だが今回、波及は止まった。増幅は起きなかった。紡ははっと息を吸い、その痛みを指先で噛んだ。記憶の切り崩しは確かに起きている。しかし、それは彼以外の誰かの意思を踏みにじって強制した結果ではなかった。リタ自身の「語り」が中心にあったからだ。

真鍮の月形飾りが、紡の掌の内で小さく震える。彼はそれを胸に押し当て、歯を食いしばった。失われる記憶の空洞を、誰かが埋めるためには時間が必要だ。真由はすぐに革冊子を開き、口を開いた。語りの始まりだ。彼女は薄く笑いながら、紡の幼少時代の話を切り出した。鉄を最初に握った日のこと、雨に濡れて帰った夜の小走り、父の鍛冶歌を真似して突然大笑いしたこと——細かな輪郭を、言葉で埋めていく。

外で影が動く。兵はまだ屋根を滑っている。紡たちには時間がない。だが、今のやり方であれば、紡の術は呪いを暴走させずに束ねられる。誰かが語ること、そして当