月を裁く鍛冶師は人間でいる 第15話「第13章」
煤けた暖炉の火がじりじりと赤くなった。鍛冶炉はもう鳴らず、冷えた鉄の香りだけが空気を満たしている。灰賀綴は膝の上に置いた小箱をじっと見つめた。箱の蓋には、まだ乾かぬ黒い錆の模様があった。そこからは、今朝聞いた声の残響が薄く立ち上っている気がした。
煤けた暖炉の火がじりじりと赤くなった。鍛冶炉はもう鳴らず、冷えた鉄の香りだけが空気を満たしている。灰賀綴は膝の上に置いた小箱をじっと見つめた。箱の蓋には、まだ乾かぬ黒い錆の模様があった。そこからは、今朝聞いた声の残響が薄く立ち上っている気がした。
「綴さん、手伝ってくれ」楓の声が低く、固い。窓際の藁敷きに座る彼女の影が、三日月の欠けた光で輪郭を切られていた。縛られたマントの端に土が付き、指先には昨夜の泥がまだ残っている。
綴はゆっくりと箱を開けた。中には二枚の薄い鉄片と、鱗のように薄い羊皮紙が折り畳まれている。鉄片の表面には、人の息で曇るほど細い刻印が打ち込まれていた。打ち込みの線は非対称で、まるで誰かの指紋を写したようだった。
「源左と、小桜さんの証だ」楓が言った。「あの二人、今日の夜中に裁きの前に連れていかれるはずだった。綴さんが繋げられるかって、みんなで…頼んだんだ」
綴は黙って鉄片を掌に載せた。金属は冷たく、指先にじんわりとした感覚が回り込む。彼が息を吸うと、二つの声が同時に頭の中で立ち上がった。源左のガラスのように乾いた独白と、まだ幼さを残す小桜の震える歌。声は別々なのに、鉄の上で重なって輪郭を変えていく。
「始めるよ」綴は言った。鍛冶槌を膝に置く。槌の柄に残る自分の指跡が、遠い記憶を呼ぶはずだったのに、そこにはいつもあったはずの母の輪郭が欠けていることに、綴は気づいた。母が教えてくれたはずの槌の握り方。火の番の合図。そうした日常のやり方が、一つずつ薄れていくのを、彼は確かに感じていた。
最初の一撃。鉄片に槌が触れた瞬間、部屋の空気が収縮した。声はもっと鮮明になり、目に見える細い光の糸が、源左の胸から鉄に絡みつくのが見えた。光は冷たく、銀色の軟膏のように流れて、鉄の表面を滑り、刻印を深く押し広げた。綴は次の一撃を打つたびに、源左の記憶の断片が湯気のように抜け出し、鉄の中に固まっていくのを感じた。
しかし、同時に綴の胸のどこかが裂けた。母の膝に乗っていた時の匂い、紗耶と呼んだ妹の笑い声の一節、夜仕事の後で自分が必ず口ずさんだ古い歌――それらがふっと薄れる。最後の一撃を当てたとき、綴は自分がいつも数えていた「三」を忘れていた。
「綴、大丈夫か」楓が手を伸ばす。彼女の手の温度を感じて、綴はゆっくりと呼吸を整えた。彼は鉄片を押し当て、二つの証を一つの形にするための仕上げを始めた。真ん中に弧が、月を切ったような凹みが入る。出来上がったとき、鉄片は薄い音で息を吐いたように感じられた。
「これで裁きの前で使える」辰也が低く言った。かつての軍人らしい短い口調だ。彼は小桜の目元に触れ、そこに宿る黒い斑点が強く光るのを見て顔をしかめた。小桜はまだ震えていたが、どこか安堵の色があった。裁かれる理由は嘘だった。綴が繋いだのは、嘘と暴力の連鎖を切るための証言だった。
だが、夜は残酷な代償をすぐに見せつけた。綴が証を用いて判決の場で嘘を暴露し、源左の拘束を解かせた直後、彼の胸から黒い花弁のような塊が零れ落ちた。触れた者の肌に付着すると、そこから微かな痺れと咳が広がる。救われたはずの源左の口から、再び呪いの片鱗が噴き出したのだ。
「何だ、これは…」群衆の中でざわめきが起き、衛兵が近づく。呪いは、救済を強制されたことで盛り上がり、初期の反応として周囲を汚染した。誰かを強制的に助けるという行為が、呪いをこね返して増幅する──綴はそれを以前にも感じた。だがそれを証人の前で使わざるを得ないとき、被る代償の重さは生々しく違った。
「離れろ!」辰也が叫び、人々を押しのけて源左を抱え上げた。だが抱いた手に伝わるのはぬるい寒さ。源左の肌には小さな黒い紋が点々と広がり、まるで月の欠けた形を何度も繰り返したように見えた。綴は自分の作った証を見下ろし、そこから聞こえる源左の最後の声が、自分の頭の中で薄くなってゆくのを感じた。
「綴、どうする?」明日香が問いかける。彼女は若く、かつて病院で働いていたことがあって、呪いの医療的対処に精通している。彼女の目が源左の紋に釘付けになる。綴は答えられなかった。今までに救った誰かの顔が、また一つ抜けていくのを感じる。記憶というものが、証を鍛えるたびに彼の内で薄く染み出し、風景の端に消えていく。
「無くなるんだ、忘れるんだ」綴は声を落とした。「使うほどに、僕の大事なものが薄れる。強く救おうとすればするほど、呪いは答える――増える」
楓は固く顎を噛んだ。胸の内の怒りが彼女の目に刻まれる。「それでも、死ぬよりはいい。目の前で人を殺す連中に、それを許すわけにはいかない」
「だが、これが……広がれば」辰也の言葉は続かなかった。衛兵は呪いの疑いを口実にして、救われた者を連行しようとしていた。官憲は呪いを“統治の手段”として名目化し、人々の選択を奪う。綴の見せた真実は一瞬、嘘を砕いたが、その裂け目から別の痛みが噴き出した。
小桜の小さな手が綴の袖を掴んだ。彼女は震えながらも、目に決意を宿していた。「綴さん、私…店の屋根の下で泣いてるだけじゃ、何も変わらないって、わかるよ。あの人たちが、あんなふうに…」言葉を切ると、小桜は自分で唇を噛んだ。彼女の紋はまだ小さかったが、唇の端には血が滲んでいた。
「選択が必要だ」綴はぼんやりとした頭で答えた。「でも、その選択は――僕一人のものじゃない」
楓が鋭く息を吸い、薄い笑みを作った。彼女は立ち上がり、箱の中のもう一枚の鉄片を取り出すと、自分の腰に結びつけた。鉄片は朝の市役所の門前に掲げられると、裁きの痕跡を露わにするだろう。だがそれは、楓自身と仲間に対する報復を招く選択でもある。
「私は行く」楓の声には揺るぎがなかった。「朝になったら、あの扉の前で裁れ片を晒す。公にする。綴さんが繋いだ証を、みんなの前で鳴らす。それで、裁きが正当化される根拠を暴いてやる」
「待て」辰也が割り込む。「それは誘拐同然だ。衛兵が来たら、お前をまず斬りに来る。綴も、仲間も――」
楓は振り返り、綴の目をじっと見た。そこには今までとは違う思いがあった。単に生き延びるためでも、単に復讐のためでもない。楓は自分たちがこれまで守ってきた人々に、選択する余地を取り戻したかったのだ。月に裁かれるのではなく、月に向かって声を上げる権利を。
綴は冷えた鉄片を返した。指の腹に、いつか自分が忘れてしまうだろう母の暖かさを探すように触れた。そのとき、かすかな残響が胸の奥で鳴った。紗耶の笑いの一節かもしれない、あるいは誰かが昔歌った子守歌の断片かもしれない。それは確かに彼のものだったが、綴はそれをどうしても完全には掴めなかった。
「楓、もし…もしお前が表に出るなら、僕は後ろから守る。だけど、もし何かが起きたら――」綴の言葉はそこまでで止まった。言い切れないことがあった。救済は時に呪いを作り、呪いはまた別の救いを要求する。彼は人間でいることを守るために戦っているつもりだったが、その戦いの先で失うものが増えていくのも確かだった。
楓はゆっくりと頷いた。「それでも、やる。私たちが沈黙を破れば、他の人も考える余地が生まれるかもしれない。綴さんの力があるなら、それを見せる価値はある」