痛みを移す看守は戦争を終わらせる 第8話「第7章」
石壁が冷たく湿った匂いを吐く監房は、夜の間だけ薄い音を許した。ランタンの火が揺れるたび、鉄の格子が小さくきしんで、床に散った陰影が揺らめく。加瀬誠吾は古びた手帳のページを人差し指でなぞっていた。指先に残る紙のざらつきとインクのにおいだけが、この場に確かな現実を与えている。
石壁が冷たく湿った匂いを吐く監房は、夜の間だけ薄い音を許した。ランタンの火が揺れるたび、鉄の格子が小さくきしんで、床に散った陰影が揺らめく。加瀬誠吾は古びた手帳のページを人差し指でなぞっていた。指先に残る紙のざらつきとインクのにおいだけが、この場に確かな現実を与えている。
「もう、説得は無理だった」
声が低く、しかし確かな足取りで近づいてくる。久保田理奈が格子の外の薄い光の輪に入った。彼女の制服の袖口には新しい血の黒い点がついていて、顔色はいつもより白い。理奈の瞳が誠吾の手帳を見て、少しだけ緩んだ。
「拓海たちが──派手に動いている。僕を排除することを決めたらしい。──君は?」誠吾は問い返す代わりに紙のページを閉じ、小さく息を吐いた。彼の胸のあたりに、古い縫い跡のような痕が見える。そこは彼が能力を行使したときに現れる、いつもの場所だった。
理奈は格納していた包みを差し出した。包みの中には、濡れた羊皮紙が折りたたまれている。表には走り書きのように、番号と短い記述が並んでいた。「西翼の移譲帳。三枚だけ抜き取った。誰かが内通してる──署名はない。だが、注記に『暫定代償』という語が何度もある」彼女の声は震えておらず、短刀のように切り出した。
誠吾は紙を受け取った。羊皮紙の表面は触れると冷たく、インクはまだ湿っている。指を這わせると、頁の隅に押された小さな印章が目に入った。二本の曲線が交差し、中心に点がある。見覚えのある形だった。彼は軽く息を吸った──その印が、式文を唱える時に施設の祭具の裾に刺繍されている印と同じだ、という記憶が、あたかも糸で引かれるように胸の奥から浮かんだ。
「これを表に出せば、戦争を終わらせるための証拠になるかもしれない」理奈は息を荒げず、だがどこかがりりとした声で続けた。「ただ、拓海たちは動きが早い。今夜、西翼を封鎖してしまうって。僕たちが出す前に隠滅される可能性が高い」
格子の向こうから微かな足音がする。談笑と怒声が混じる。派閥の声だ。誠吾は頭の中で薄い蜃気楼のように、あの夜の騒動の影を追っていた。あの時、自分が痛みを受け止めたはずの叫びが、どこかで歪んで跳ね返った。仲間の信頼は、内側からひび割れていった。
「行くのか?」理奈が彼の手を掴む。指先の力は確かで、冷えた金属を握るような緊張があった。
「俺が行けば、また──」誠吾は言葉を濁した。能力を使えば、確かに証言はつながる。だがその度に、記憶がひとつ、ふたつと抜け落ちる。最後に何を失ったかを思い出せないのに、そのための代償が現実の痛みとして彼の体に刻まれていく。記憶よりも先に、身体が反応する。呼吸が浅くなった。
理奈は誠吾の顔をまっすぐ見た。「あなたがいなくなったら、誰が『痛みを持ち帰る』の? 無理強いされた証言じゃ、虚構にしかならない。誠吾、彼らはそれを利用してる。式を制度に組み込んで、痛みを『治める』ふりをしてきたんだ。記録の中に、『暫定代償』の横に微かな呟きがある。『個の記憶は集団の負債に変換せよ』って。どう読んでも、私たちの使い方と同じ言葉が混ざってる」
言葉が重い。誠吾は羊皮紙を胸に抱え、指の先がわずかに震えた。印章の曲線が、薄い珊瑚のように脳裏でうずく。彼が声を出す前に、理奈の膝がくずんと折れ、身体が前に崩れた。血の匂いが唐突に立ち上がる。背後で格子の戸がばたんと閉まった音。誰かが刺したのだ。
「くっ……!」誠吾の胸に怒りがわき、同時に冷たい恐怖が押し寄せる。理奈の顔に血がにじみ、薄く青ざめていく。目を開けたまま、理奈が誠吾の手を掴み返した。「誠吾、お願い……逃がして。これを持って。村へ──あの人たちに渡して。彼らが自ら語るところを見せたい。無理やりではなく、彼らの声で──」
言葉は薄い紙のように揺れた。誠吾は足を踏み出していた。もう誰かに奪われるのは嫌だった。だが、その決断の瞬間、理奈の指先から彼に向けてある種の懇願が押し出される。誠吾は目を閉じた。彼の掌が理奈の腹部に置かれ、いつもの熱さが移るのがわかった。
能力が起動する。ほんの一瞬、世界の輪郭が歪む。理奈の痛みが、鋭い矢のように誠吾の胸に刺さる。皮膚の下で寒さと火災が同時に走る。彼は息を詰め、理奈の血の熱を自分の体に引き込む。痛みを受け止めるとき、彼はいつも雑音混じりの声を聞く──遠い場所で誰かが何かを呪文のように繰り返している。今夜はそれが違っていた。
羊皮紙に押された印章の形が、痛みのざわめきの中で口を持った。音にもならない短い節が、脳裏に滑り込む。どこかで聞いた式文の断片と同じリズム。誠吾は、痛みの奥から文字が浮かび上がるように映像を見た。監房の奥で、制服を着た男が同じ印章をさっと袖に縫い付ける。祭壇のような机に向かい、誰かの声を読み上げる。言葉はある種の「契約」を形づくっていた。「代償を暫時として差し出すことを申す」──印章は、痛みを制度化するために用いられていた。
誠吾が息を吐くと、理奈の呼吸が深くなる。血の流れが落ち着き、傷口が奇跡のように塞がっていくのが手のひらに伝わった。彼は理奈の瞳に何かを確かめた。そこには恐怖だけでなく、決意があった。
だが代償は即座にやってくる。胸の奥から、ぼんやりとした霧が広がった。幼い頃に聞いた母の笑い声が、いつものように消えていく。母が歌ってくれたはずの歌の一節が、言葉にならず空白になる。誠吾は戸惑い、目の前の世界が少し音を失ったように感じた。記憶が一片、消えたのだ。
「誠吾、覚えてる?」理奈の声が小さく震えた。「私たちが……あの夜に見た、あの子の名前──」
「──わからない」誠吾は弱く笑い、首を振った。口の中に金属の味がした。手帳の頁をぎゅっと握りしめると、そこに書きつけたはずの文字の一部が空白になっているように見えた。彼の指先に紙のざらつきは残るが、言葉の輪郭は消えていった。
「それでもいい」理奈は震えた唇を噛み締め、立ち上がろうとする。誠吾は彼女を支え、背中に手を回した。血のにおいは薄れ、代わりに遠くから鈴のような高い音が聞こえた。監房の外、通路の奥で誰かが祈りのように小声で言葉を並べている。誠吾はその声に胸の奥が痛むのを感じた──彼の能力が、無意識に周囲の呪詛や儀礼と結びついていることを示すしるしだ。
「拓海たちは、今夜西翼を封じる」理奈は低く囁いた。「でも、封じられる前にここを出られれば、村の人たちに直接渡せる。私が行く、誠吾。あなたは──」
「君を一人では行かせない」誠吾の声には、以前よりも濃い決意が混じっていた。だが彼自身の心の中で、別の声が囁き続ける。能力を使えば、仲間の声をつなげられる。しかしそれは同時に、自分の記憶を削るということ。そして、強引に証言を引き出した時に呪いは暴走する。誠吾は理奈を押しのけ、格子の錠に触れる。冷たい鉄の感触が、彼の掌に伝わる。
外から脚が近づく。低い怒声が壁を振動させ、複数の足音が通路に溢れた。辻井拓海の声があった。「加瀬を出せ。今すぐだ。奴を放置すれば、我らは責任を取らねばならぬ」
仲間が分裂している。彼らは誠吾を「危険」として梃子に使い、表舞台にさらしたがっている。誠吾は手帳の最後の頁をめくると、そこにかろうじ