痛みを移す看守は戦争を終わらせる 第2話「第1章」
蛍光灯が一度、二度と瞬いて、薄い影が鉄壁の床に波紋のように揺れた。そのたびに壁に映る何かが震え、イクトは目を細めた。影は人の輪郭にも似て、しかしそれがまとう痛みの輪郭であることを彼は知っていた。坐る者の叫びが光に残像としてくっきりと刻まれる――彼の能力はそれを写し取り、言葉として綴る手助けをする。けれど写し取るほど、写し取った者の記憶が、ひと欠片ずつ風で吹き飛ばされるように薄れていくのだ。
蛍光灯が一度、二度と瞬いて、薄い影が鉄壁の床に波紋のように揺れた。そのたびに壁に映る何かが震え、イクトは目を細めた。影は人の輪郭にも似て、しかしそれがまとう痛みの輪郭であることを彼は知っていた。坐る者の叫びが光に残像としてくっきりと刻まれる――彼の能力はそれを写し取り、言葉として綴る手助けをする。けれど写し取るほど、写し取った者の記憶が、ひと欠片ずつ風で吹き飛ばされるように薄れていくのだ。
「起きてろ、ユナン。話せ。ゆっくりでいいから。」
鉄格子の向こう、薄汚れた毛布に身を包んだ男が腕を抱えて震えている。ユナン。二十代半ばの徴集兵で、狭い瞳がやつれた獣のように光る。口の端にまだ土の匂いが残っていた。イクトは鍵束を腰にあて、手のひらに温かさを集めるようにして格子越しに差し出した。能力を使うには触れ、相手の痛みを自分へ引き受ける──いつもそうではない。だが今日、彼は小さな被験的転移を繰り返して、囚人たちの断片的な証言を綴る手帳を作ろうとしている。
ユナンが口を開く。声は砂を噛むように濁っていたが、光の残像は鮮烈だった。蛍光灯がまた瞬き、壁に裂けた記憶の影が揺れる。イクトは目を閉じ、言葉が降るのを待った。
「…鎮圧部隊は、子供を――いや、違う。違う。薬だ、薬を撒いたんだ。白い粉。泣いてるうちにみんな、目が溶け始めて…母さんの手が血だらけで、俺は土に…」
言葉の合間にユナンが声を止め、目をぐっと閉じる。彼の身体が小刻みに震え、胸から切れ切れの音が漏れる。イクトの手のひらに、冷たい針が走った。痛みはユナンから流れ込む。燃えるような熱、砕ける骨の音、皮膚の下を何かが這う感触。イクトは息を詰め、片手で壁の鉄を握りしめた。痛みは鮮やかに、しかし確かに他人のものとして押し寄せる。
「書け、書け!」と誰かがかすれた声で叫んだわけではない。イクトはいつの間にか右腕に持っていた小さな手帳を開き、まるでそれが慣れた儀式の一部であるかのようにペンを走らせた。ユナンの言葉は映像として、匂いとして、皮膚感覚として降りてきては紙の上で形を成していく。鉛筆が走る音だけが地下牢の中で大きく響いた。
転移を終える。イクトはゆっくりと目を開け、深く息を吐いた。ユナンは肩の力が抜けたように、眠ったのかもしれないほどに静かになった。彼の顔には、使う前にあった鋭さが消え、穏やかな空虚が残っている。これも代償だ。痛みを移すとき、対象の中のあれこれが整理される。だが同時に、何かが薄らいでゆく。
「どうだ、何が見えた?」隣に立つ若い看守が声をかける。レオン。粗野だが真面目な男だ。彼はイクトの顔を覗き込み、手帳を覗こうとする。イクトは手で押し留めた。手帳の表紙にはもう幾つものページが折り込まれ、文字が詰め込まれている。そこには戦場の嘘を暴く断片が溜まっていた。見せれば、確かにある力を及ぼせる。けれど、見せるたびに彼は自分を削る。
「粉。白い粉で…村人の――」イクトはペンを置き、言葉の断片を吐き出す。記述はまだ生々しく、彼の胸をえぐった。だがその瞬間、何かが抜け落ちる感覚が襲った。手帳のページの切れ端に触れていた指先がふと止まる。ポケットの中で小さな布片が擦れる音がして、イクトは手を伸ばした。そこには薄い青い布切れが丸められている。母親か、あるいは……。
「これ、何だっけ?」自分の声が思ったよりも遠い。布切れの縁に縫いつけられた小さな刺繍の模様が見える。いつも胸に入れているものだったはずだ。彼は布に記憶の糸を結び直そうとするが、指先を撫でると、確かに笑い声がひとつ、どこかへ消えた。名前が抜けている。誰かの笑い声と、彼が守ると誓った顔の輪郭が、ページをめくろうとする風で薄れていく。
「大丈夫か?」レオンの声が鋭くなる。イクトは首を振る。内部の痛みがまだ残っている。採取した証言の匂い、硝煙と粘土の匂いが鼻腔に張り付いて、目の前の鉄格子の冷たさが現実へ引き戻す。ユナンは眠っている。眠ることで、痛みの一部を忘れ、しかしそれが本当に救済になったかはわからない。彼の声の中の真実は、確かに紙にある。だがその真実を掲げる代償は、イクト自身の記憶だ。
「我らの手で、こういうものを外に出すか、出さないかだ」隊長の足音が歩み寄る。隊長オルザはいつも仮面のように冷静で、目が笑わない。彼は尋問の結果報告を受け取りに来た。イクトはゆっくりと手帳を差し出す。オルザはそれに目を落とし、眉間に薄い線を刻む。
「これが本当なら、都市部で騒ぎが起きる。王権の操作に都合の悪い話だ。わかっているな、イクト。」
「…はい。」言葉が出る。嫌な予感が胸を締めつける。
オルザはページをめくり、文字をなぞる。銀色の時計の針が、地下牢の低い天井にぶつかるような音を立てる。外では遠く、戦況の鐘が一度鳴った。都会の空気は今日も戦の準備で煮え返っている。証言を外に出せば、人は動く。だが動くことで、犠牲が増えるかもしれない。イクトはあのとき救えなかった誰かの顔をぼんやりと思い出そうとする。けれど記憶は薄れ、指先に残るのはただ布切れの感触だけだった。
「おまえの仕事は聞き取ることだ。だがここからどうするかは選択だ――いや、選択を促すのは我らの方針だ。次の運びは明朝。高位の取調官が来る。重要人物が運ばれてくる。彼が話すかどうかを確かめろ。君のやり方でよい。だが結果に責任を持て。理解したら鍵を返せ。」
オルザは手帳を返し、振り向く。響き渡る扉の重い音が閉まると、地下牢は再び蛍光灯のチカチカと、囚人たちの寝息だけが残された。イクトは手帳を胸にあて、ページの匂いを吸い込む。鉛筆の芯のにおいと、ユナンの吐息の混じった匂いがする。それを手にしていると、彼はあることを自覚する。真実を示すには、自分の記憶という切符を一枚ずつ差し出さねばならない。そして救済を強制するほど、その呪いが増幅するらしい。今日の小さな転移で、すでに一枚、引かれた。
夜明け前、彼は眠れずに手帳を開き直す。ページの端に書いた母音が、いつもとは少し違う形をしている。字が変わっている。まるで、自分の書き方をひとつ忘れているみたいだ。指先が震え、胸にぽっかりと空いた穴が見える。そこに入っていたはずの顔が、とうに影になって落ちてしまっている。イクトは布切れを撫で、忘れた名前が戻るようにと念じた。しかし暗闇の中で、蛍光灯の残像だけが静かに揺れる。
次の朝、鉄格子の向こうに連行されてくるのは、将校の服を纏った一人の男だった。肩章は擦り切れ、目は鈍く光っていた。オルザの手には書類があり、そこには王都からの指令名が黒々と記されていた。彼はイクトを見て、冷たい声で言った。
「貴様に話を聞かせる。だがこれは命令だ。おまえがすべきは、真実を取り出すことだ。どれほど代償があろうともな。」
イクトの掌は、その命令を重く受け止めた。手帳のページが風に反応するような音を立てる。彼は布切れをぎゅっと握りしめ、忘れた輪郭をもう一度呼び戻そうとした。だが呼び戻されるのは、痛みの残像だけだ。胸の内側で、彼の中にある選択肢が重く響く。
救うか、晒すか。自分を削り続けるか、それとも見て見ぬふりをするか。
イクトはゆっくりと、格子の方へ歩み寄っ