嘘を継ぐ裁判官は死者の声を聞く 第26話「第24章」
朝の湿気が、広場の石畳の目地に残っていた。炭の匂いと血の匂いが混じり、空気は重く、そこに糸のような光が垂れ下がっていた。光は細い銀線とも蜘蛛の巣とも見え、杭と杭の間を渡り、広場に集められた人々の肩や髪、袖口に絡みついている。誰かが呼べば答えが返ってくる──だがその声は、死者の声だと、ジンはわかっていた。
朝の湿気が、広場の石畳の目地に残っていた。炭の匂いと血の匂いが混じり、空気は重く、そこに糸のような光が垂れ下がっていた。光は細い銀線とも蜘蛛の巣とも見え、杭と杭の間を渡り、広場に集められた人々の肩や髪、袖口に絡みついている。誰かが呼べば答えが返ってくる──だがその声は、死者の声だと、ジンはわかっていた。
「動かないでください」ミラが低く言った。彼女の手はいつもより固く、掌に汗をにじませていた。ミラは自治会の記録係だったが、ここでは法の補佐を務める。彼女の視線は広場の中央に立つ男、老巡査の顔を刺した。男の手に残る爪痕、喉の裂け目。死者の糸はその喉と男の胸を結んでいた。
ジンはじっと見た。いつもなら、その糸を自分の中に引き込んで、そこにある「真実の断片」を集め、関係者一人一人に言葉として繋ぎ直す。死者が語ったことを、加害者か見届け人の口から聞かせることで、嘘は皮が剥かれる。しかし、最近の代償は大きくなっていた。使うたび、彼の内側の何かが薄れていく。今日はまた一片が消えた感覚が、胸の奥で波打っている。
「始める」ジンは言った。声が出るまでに一瞬の遅れがあった。掌を前に差し出すと、糸の一つが彼の指先に吸い込まれるように絡みつき、冷たく、まるで小さな電流が肌を撫でた。声が耳へと流れ込む。それは囁きでもなければ叫びでもなく、重い確信のようなものだった。
――俺を見ていたのは、奉仕の者の手だった。長く続いた夜。言いつけは一つ。沼の側に葬れ。
ジンはその声を、一番近くにいる老巡査の口へと向けた。言葉が溢れ出し、見物人の群れがそれを飲み込む。巡査は震え、息を吐いた。言葉は彼の胸から出たもののようで、彼の表情に驚愕と解離が走った。
「違う、俺じゃない」巡査は叫んだ。だが、死者の記憶は揺るがない。人々の注目が一人を一点に絞ると、空気はさらに重くなる。糸は増え、声は重なった。
ミラの顔が、急に強張った。彼女はジンの腕を掴んだ。掌が冷たい。締め付ける力は強く、痛みが走る。
「今のは?」ミラが訊ねた。声は掠れている。彼女はジンの目を見ようとしたが、ジンの瞳は手元の糸を追っていた。そこに、彼が見ていたのは、ただの断片ではなかった。亡くなった女の子の糸が、祭壇の脇に崩れた玩具の小さな布を繋いでいる。布の縫い目に付いた赤い糸。それを見たとき、ジンの胸の奥に空白が広がった。
「何が見えた?」エーレンが割って入る。彼は腕を組み、足で血の跡を掻くようにして立っていた。元兵士の無骨さが、今日の空気にはふさわしく見えた。彼は護るべきを守るためには刃を抜くことを躊躇わない人間だ。
ジンは口を開こうとして、言葉が消えた。そこにあったはずの、幼い日の母の声が、指の隙間からこぼれ落ちた。目の前が波打ち、景色が急に遠のいた。記憶の端が、ぴりりと裂けるような感覚。代償が、また一つ彼から何かを剥ぎ取った。
「ジン?」セリナの声がやわらかかった。儀式師であり、古い文献を読み解く者。彼女は静かに、だが確固として前へ出た。白い布で汚れた頬を拭い、糸の一つを指で摘んだ。布の感触は生温かく、湿っている。
「彼女は──」セリナが読み上げたのは、死者の断片の続きを編むような言葉だった。「『継がれる』ものじゃなくて、『選ばれる』ものがあった、と言っている。『分け手』という者の名前。儀礼の名が、まだ残っている」
群衆のざわめきが、糸の背後で波打った。分け手──その言葉は、王や祭儀の記録にはほとんど現れない。制度として抑え込まれ、秘蔵され、あるいは消されたものだ。ジンはそのとき、不意に手のひらに冷たい痛みを覚えた。掌の中の糸が、かすかに燃えるように熱を帯びる。その熱は彼の脳へ直接刺さるようだった。
「選べる、って何だ?」ミラが喉を鳴らした。「それを知れば、使い方が変わるのか?」
「変わるだろう」セリナは言った。「だが、断片だけでは儀式の全容は見えない。完全な形はどこかに保管されている──『朱盤』と呼ばれる器に、触媒として残されている。言葉を繋げた死者は、そこへ導かれていたと断言している」
「朱盤か」エーレンが唇を噛む。「国の墓所にあるという話だ。兵が守り、祭司が仕切る。直接行けば喧嘩になる」
ジンは沈黙した。胸の空白がまた疼く。彼は自分が何を忘れたのかを探った。母の顔。子供の頃の坂の匂い。だがその代わりに、今見えている死者たちの断片はより鮮明だ。色褪せた布の縫い目、祭壇の蝋滴、老巡査の爪に挟まった赤い土。彼は思い知った。自分が真実を引き出すたびに、個人的な連なりを失っている。代償は内的な消耗だけではない。彼が守る対象、つまり彼自身の過去が、削げ落ちる。
「これが止まらないのなら、私が――」ミラが言いかけた。ジンが首を振る前に、彼女は続けた。「いや、違う。あなたが一人で背負うべきではない。私たちは仲間だ。だが、誰かが『継ぐ』の真の起点へ踏み込めば、それが公になる。王や教団は黙ってはいない」
群衆の端で、小さな声が上がった。見れば一人の少女が、糸の先に小さな手を伸ばしている。彼女の指先が、光の糸を掴んだ。驚くほど冷たく、そして確かに暖かい。糸は凪の海面に一本の道筋を残すように震え、少女の瞳は揺るがない。
「やめさせてください!」その少女――名をナオと言った。ナオは、今日まで抑圧に怯えていた被支配層の一人だ。彼女の家族は呪いによって何度も奪われてきた。だがその瞳には、怒りと希望が混じっていた。「真実を隠されたままにしないで。全部出して、私たちが選べるようにして!」
ジンはナオの手を見た。糸は彼女と巡査とジン、三人の間で絡み合った。死者の声は、今や一方向へ流れるだけでなく、交差するようになっていた。それは危険の兆候でもあった。糸が多方向へ引かれるほど、ジンの能力は不安定になり、代償は増大する。最近では、強引に人々の心を救おうとした行為が、逆に呪いを増幅させた事例があった。救済を強いると、死者の声は増え、糸は刀のように周囲を切り裂く。実際に前回は、救出を試みた家族が体調を崩し、二人が亡くなった。罪悪感が、ジンを夜も眠らせなかった。
「私が行く」セリナが言った。彼女は軽く首を振り、糸をそっと引いた。「だが――儀礼は、同意のもとで継がれるべきだと死者は言っている。分け手はその『選択』を扱っていた。全て壊すのではなく、手順を取り戻す。選べる枠組みを作ることができれば、『継ぐ』を支配の道具から、参加の儀式へ変えられるかもしれない」
ジンはセリナの言葉に、胸の中で小さな灯りが灯るのを感じた。だが同時に、彼の掌はまだ冷たかった。糸の熱が走り、消えたはずの記憶のかけらが、さらにどこかへ滑り落ちるのを感じる。もし彼が今、完全な場所の座標を得るために力を最大限に振るえば、朱盤の所在は突き止められるだろう。だがその代償は計り知れない。母の顔、ナオの笑い、ミラと交わした初めての口論の記憶──どれが失われるかはわからない。
「ジン、あなたがやるの?」エーレンの声が冷たく響いた。「ここで待つだけで、誰かがまた犠牲になるかもしれない」
「一人で全部を背負わせない」ミラが言った。彼女の声には涙が混じっていたが、訴えは強い。「でも、あなたの過去は、あなたの