嘘を継ぐ裁判官は死者の声を聞く 第10話「第9章」
暗室の空気は油の匂いと紙のかび臭さで満ちていた。久遠慎は古い映写機の側に肘をつき、薄いガラスの筒から漏れる白い光を睨みつけていた。フィルムが回るたびに擦れた音が低く唸り、壁に映るモノクロの影が鼓動を打つように揺れる。映像は国家の儀礼堂――高い天井、列席する軍服と僧服、真ん中で膝をつく者たち。静止した表情の群像に、誰かが低く詠唱する声が被さる。声は乾いていて、まるで土の中から引き剥がされたもののようだった。
暗室の空気は油の匂いと紙のかび臭さで満ちていた。久遠慎は古い映写機の側に肘をつき、薄いガラスの筒から漏れる白い光を睨みつけていた。フィルムが回るたびに擦れた音が低く唸り、壁に映るモノクロの影が鼓動を打つように揺れる。映像は国家の儀礼堂――高い天井、列席する軍服と僧服、真ん中で膝をつく者たち。静止した表情の群像に、誰かが低く詠唱する声が被さる。声は乾いていて、まるで土の中から引き剥がされたもののようだった。
「ここだ……」
慎は声を震わせないようにスライドを押さえ、記録の一コマ一コマを目に焼き付ける。映写機の横に並べた写真立ての中の一枚に指が触れた。美奈の写真だ。写真の中で彼女は笑っていて、目が細くなっている。慎は指先で額縁の縁を撫で、記憶の扉を確かめた。
「うまくいくか?」
低い声が背後からした。アレンは古いコートの襟を立て、濡れた髪を払った。顔には疲労の骨が浮かんでいたが、眼だけは火がともっている。
「これがあの継承儀礼の本体だ。宗務院の文書とつながる。けれど、映像だけでは――」
慎は唇を噛んだ。映像に映るのは式の外形だけではない。彼が目指すのは、そこで語られた「言葉」そのものだ。あの場で誰が何を叫び、誰が真実を隠したのか。死者の声が残っているはずだ、と慎は確信していた。だがその声を取り出すには代償がいる。呪いは要求する。彼が何度も受けてきた代償の気配が、脳裏で氷のように広がる。
「やるのか?」
アレンの問いに、慎は目を閉じて小さく頷いた。息を吸うと、部屋の空気は突然冷たくなった。映像の中の群衆の唇が動く。音声は劣化してザラついたノイズと化しているが、慎の耳には重なり合う声が鮮明に届き始めた。死者たちの残滓が、ひとつの線となって彼の内側に滑り込む。
「私は嘘を継ぐ。私は秩序を守るために名を唱える」
声は重層になり、彼の胸を叩いた。慎は両手を机に押しつけ、言葉を手繰る。能力が働くとき、彼はその真実を「継ぐ」――ひとりの声ではなく、当事者たちの断片を束ねて一つの供述にすることができる。だが毎度、束ねるたびに何かを失う。今日はそれを理解しながらも、止められない。
声を束ねると、まず手先に冷えが走った。爪の隙間から油の匂いが立ちのぼり、部屋の音が遠くなる。次に、柔らかい痛みが頭の奥でくすぶり、慎は顔を顰めた。頭の中で一枚の絵が剥がれ落ちるように、幼い日のある場面が消えた。祖母が作ってくれた煮物の匂い、縁側の年季の入った座布団――それらが薄く、遠くなっていく。舌先に銅の味が広がる。記憶は積み上げた図書の頁のように、彼の掌から滑り落ちるのだ。
「慎、しっかりしてくれ!」
アレンが肩を叩く。指先は温かいが、慎の中で重ねられていた時間の一部がもう取り戻せない。慌てて写真立てを掴み、目の前の顔を確かめようとしたが、そこに写る笑顔の輪郭が曖昧だった。写真はそこにある。だが瞼を閉じて思い出そうとすると、その顔は器用にすり替わり、代わりに彼が覚えていた別の風景が出てくる。手応えがない。慎は喉を鳴らした。
「これが――代償か」
声は震えていた。アレンは黙って慎を見つめた。彼もまた、自分のやるべきことを知っている。アレンは自分で動いた。数時間前、彼は軍内部に旧知の者がいるという話を口にしていた。あの時点で慎には予備の策が必要だった。アレンは短く離れて行動し、軍への接触を試みていたのだ。
部屋の外で、低い足音が戻ってきた。アレンがドアを押し開け、肩に掛けたコートをぐっと直す。手には一通の封書。表には軍の紋章。封を切ると、中には薄い紙片と、一枚の写真が入っていた。写真の裏面には鉛筆で走り書きがある。
「垣根が動くってさ。カリドってやつ。古い名で言えば"垣根"、今は少尉だ。宗務院が軍に接触して、呪いの"正当化"を求めているらしい。映像のこと、そして今月の継承式に軍も参加する。こいつは――」
アレンの指が写真の隅を押さえた。写真に写る男は若く、目には冷たい光がある。だがその冷たさとは別の、憂い。垣根(カリド)はアレンの言葉通り、古い面影を残す者だった。
「軍が関与すれば、儀礼は形式から国家の正当性へと昇華する。宗務院はそれを欲している。慎、君がこの映像で儀礼の『現実』を晒せば、軍の参加は危機に変わる。だが一度公にすれば、宗務院は即座に反撃する。軍と宗務院が手を結べば、逃げ場は無くなる」
慎は映写機の前に立ち、画面の中の詠唱がいつしか合唱になっているのを見た。映像のモノクロと、今の室内の色彩の差が、不気味なほど鮮やかだった。モノクロの中の人々はただの影だったが、彼らの言葉は生々しかった。病院の廊下で殺された患者の名前、若者が叫んだ「自由」――それらが全て、儀礼の中で形式化され、"正当"に捻じ曲げられていった痕跡だ。
「垣根は会ってくれるかもしれない」とアレンは続ける。「だけど奴は軍の中でもギリギリの線を歩いている。宗務院と繋がっている幹部もいる。君がこの声を公共の場で流せば、僕らを守るための"盾"が必要になる。カリドは一枚の可能性だ」
慎は写真を手に取った。彼は自分の失った何かを埋め合わせるように、垣根の目を見据えた。そしてもうひとつ、映写機のフレームの隅に映るものに気づいた。黒い布製の箱が壇上に置かれている。箱の蓋が開けられると、そこから紙の札が取り出され、司祭がそれを読み上げる。札には名前――節目の名が幾つも並んでいた。映像はその札が一枚ずつ失われていく様を捉えている。誰かが札を抜き取り、床に放り投げる。札は踏みつけられる。だが映像の一瞬、札の片隅に今も見覚えのある文字が刻まれているのを慎は見逃さなかった。
「――これ、誰の名前だ?」
慎は小声で呟いた。アレンは瞬間、顔を強張らせた。
「一つだけ生々しい名が残ってる。……美奈の旧姓だ。古い名簿に載っている。祈りの札の下に隠された名簿。宗務院は『消えた人々』の名を記録していた。だが、それを覗けるのは儀礼に関わった者だけだと垣根は言う」
慎の手が滑る。美奈の名が、儀礼の記録のどこかに残っていると言われた。守るはずの者の名が、もしかすると国家の正当化の道具として扱われていたのだ。怒りが喉を焼いた。しかし、それ以上に恐れが冷たい錐のように慎の背筋を突いた。
「もし名簿が現存していて、しかも軍がそれを管理しているなら……僕らは直接手を伸ばさないといけない。アレン、君は垣根に会ってくれ」
アレンは黙って頷いた。決断は彼の顔に新たな硬さを与えた。だが慎はもう一つの現実を思い出す。自分がこの声を公衆に向かって「継ぐ」ことができるのか。能力は一度公に使われれば、呪いを拡大する。特に救済を強制する形で使えば、呪いは跳ね上がる。アレンが軍の内側で交渉するという選択肢は、慎の代償を減らせるかもしれない。だが軍と宗務院が既に接触しているという事実は、時間が残されていないことを示していた。
椅子に腰掛けた慎は、思い出の欠けた部分を探りながら手のひらを見た。そこには小さな古傷の白い瘢痕がある。幼いころ、彼が守れなかった日の証だ。守るために何を失ってもいいのか。彼は自分に問うた。
「僕は――行くよ。あの継承の場で、声を流す。公に、しかも阻むも