影を売る修道女は赦しを拒まない 第4話「第3章」
石畳に落ちた影が、軍靴のかたちでべたつくように伸びていた。鉄の先が小さな影の足首を踏み潰す。ルカはそれをじっと見つめ、唇をかむ。からりと扉を叩く音が、夕暮れの通りに低く響く。
石畳に落ちた影が、軍靴のかたちでべたつくように伸びていた。鉄の先が小さな影の足首を踏み潰す。ルカはそれをじっと見つめ、唇をかむ。からりと扉を叩く音が、夕暮れの通りに低く響く。
「修道女さん。影を買ってやったんだってな」声は粗く、制服の金具が触れ合う音が混じった。戸口に立つ男は徴募隊の隊士だった。腕に巻かれた帯には、王印の小さな刺繍。威圧は公的な冷たさを帯びていた。
イレナはルカを抱き寄せるようにして、灰色の布を胸に押しつけた。布の中で、影はぞくりと薄く温度を変えた。吸い付くような匂い—古い木箱、焦げた紙、そして海のような遠い湿り気—が鼻腔にひっかかる。彼女の手のひらの肉が、影の輪郭を感じる。柔らかく、薄く、しかし決して人間ではない。
「買ったからには私が守る。あなたが出て行く筋合いはない」イレナの声は低く、しかし揺れていた。彼女は祈るように二つの手を重ねる癖があったが、今は影を抱く手がそれにかわる。祈りの代わりに影を守る──それが彼女のやり方だった。
ルカは腕を絡め返す代わりに、少し身を引いた。十代に見える細さだが、顎のラインに逆らえない強さがある。眼差しは怒りと恐怖が混ざり合い、何かを決意している者のそれだった。
「僕は、知らない。なんで僕の影が狙われるのか。母さんは…」言葉は切れた。母の名が出せないのだ、イレナは気づく。ルカの胸にある傷跡を見たときのことを、彼女は覚えていたはずなのに、その名前だけが綻びている。思い出の縁が、指先から滑り落ちるようにぼやけていく。昔、彼女が幼い頃に聞いた歌の一節が、突然音程も言葉も抜けて消えた。空白ができる。心地よさとしてそこにあった些細なものが、音を立てて消えていく。
「ルカ」イレナはその名を呼んで、耳に残るはずの昼下がりの匂いを探した。だが彼女の内側で灯っていた小さな光がちらつき、見失った。能力を使った後のいつもの感覚だ。真実を取り出すたび、彼女の大切な記憶が薄まる。忘却は静かに、だが確実に彼女の中を削った。
隊士が一歩前に出る。鉄の靴が石畳に鋭いリズムを刻む。影も応じるように黒い甲高い音を立て、軍靴の影がぴたりとルカの足首に重なる。音は増幅する。影の中の細い針金のような何かが、乾いた音で鳴った。
「帳簿に名がある。君の影は徴募に値する。王は影を持つ者を国に置くと定めた」隊士の声に怒りの灯が混じるのは、規則が彼の盾であるからだ。徴募の言葉は恐れよりも先に共同体の口を閉ざす。
ルカの目に光が立ち込める。「でもそれって、僕がどうしたいか無視してるってことでしょ? 僕が選べるはずだって、母さんも言ってた」
母のことを言うときの彼の声は、驚くほど強かった。イレナはふいに、昔自分が約束したことを思い出すような気がした。赦しを拒まない、という自分の誓い。だがその誓いは、他人の選択を踏み越えてしまうことがある。赦しと救済は紙一重で、押し付けになれば呪いを増やすと彼女は知っていたはずだ。だが知っているだけでは救えない者がいた。
隊士が指を鳴らした。二人の補佐が戸口から侵入してくる。肌に触れる夕風が冷たく、鉄の匂いが濃くなった。そのとき、イレナの胸の奥で既知の震えが始まった。影が囁く前ぶれだ。彼女は深く息を吐き、布ごしの影に耳を寄せる。
視界の端で、街灯の光が揺れ、空気に薄い膜のようなものが張る。影の中から、幾つもの声が転げ落ちる。子どもの足音、軍靴の重なり、訓練場の号令、そして母の呼び声。断片は揺れ、統合されない。イレナはそれらを拾い上げ、ひとつの形に結びつけようとする。それが彼女の能力だ。影が見せる残酷な真実を、当事者の証言として束ねる――だがそれは欠けた鏡のようで、見る者の方法によって反射が歪む。
「見せてやれ」隊士が命じる。彼らは真実を恐れているのではない。真実を秤にかけ、必要なところだけを取っていくことを望んでいるのだ。
イレナは目を閉じた。影の声をひとつに紡ぐと、目の裏で映像が立ち上がる。ルカの影が戸口で踏まれ、母の手が引かれる、母が泣きながらも歩かされる。学校の教室の灯りが次々と消える。小さな手が軍靴に縛られ、名簿の紙が濡れている。映像は冷たく、しかし均等に可視化されなければならない。彼女が見せれば、徴募は正当化されるだろうし、拒否の根拠も生まれるだろう。真実はいつもその両側に刃を持っていた。
映像は隊士たちの目の前にぱっと浮かんだ。彼らの顔が微かに変わる。硬さが揺らぎ、でも決断は揺らがない。ある者は唇を噛み、ある者は見て見ぬふりをする。真実が提示されても、制度はそれをどう使うかを既に知っている。
その瞬間、イレナの記憶の一片がぽろりと落ちた。幼い日の手の温度、庇護院のベランダで聞いた遠雷の音、叔母の指にあった小さな疵。ひとつの光景が霞んで消え、空白が出来る。胸の内で温かかった何かが冷えていく。息をすることが少しだけ重くなる。能力の代償が現実になる。
「やったな」隊士の言葉はあざけるようだった。ルカは肩を震わせた。イレナは彼の手を強く握りしめる。影は震えて、軍靴の輪郭が濃くなる。影の中の訓練の声が、輪郭の縁を擦るように強まる。
ルカは絞り出すように言った。「それでも、僕は自分で決めたい。誰かが僕を守るために勝手に決めるのは違う。僕が望むことを、ちゃんと聞いてほしい」
その言葉が通らないのがこの街の悲しみだ。だが言葉は周囲に小石を投げ、波紋を広げる。通りの向こうから、年老いた行商が顔を出した。窓辺の子供が泣き止み、老婆が外套の襟を直す。小さな観客が、生きた人間の選択を見ている。
「ならば見せてもらおう」隊士は笑って、紙を取り出した。名簿のページにルカの名前が書かれている。下には数行の文字と、もうひとつ、淡い印が押されていた。押し印は影のように黒くはない。薄い、しかし確かな朱の印だ。イレナはその印面に見覚えがあったが、思い出せない。かすかな形だけが残る。記憶の縁がすり減っている。
ルカの瞳に光が戻る。彼は胸の前で何かを決めるように拳を握りしめた。「僕は、一度、自分で納得してみる。君が守るなんて言わないでくれ。助けが欲しいときは頼む。でも、それ以外のときは僕を放してほしい」声は震えながらも確固としていた。
イレナの内側で何かが軋む。彼女は赦しを拒まないと誓ったが、その誓いがルカの意志を奪う手段になってはいけない。彼女は自分の手に溜まっていた影をぎゅっと抱きしめた。布の中で影は微かに震え、軍靴の影が一瞬だけ爪先で立ち上がる。それは警告のようにも見えた。救済の強制は、呪いの増幅を招く。忘却の代償が目の前で実証される。
「行くのか?」イレナは問いかける。男たちの目が彼女を通り抜け、ルカの決定に注がれる。彼女が追うべきか、ここで待つべきか。選択はただふたつではない。追えば彼女は自分の代償をさらに支払うかもしれない。留まれば彼を見失うかもしれない。
ルカはその瞬間、破れかぶれの笑みを浮かべた。「追ってくれるなら、約束してよ。僕を無理やり守らないって。僕が頼んだときだけ、助けてくれ」
イレナはただ一つのことを決めた。彼の中に、自分の意思を持てる余地を残したいと。彼女はうなずき、布をそっと離した。影は彼女の腕から滑り、ルカ