影を売る修道女は赦しを拒まない

影を売る修道女は赦しを拒まない 第24話「第22章」

煙と叫びが投票所の空を掻き乱した。火薬の焦げる匂いが唇を乾かし、灰が風に舞って頬を打つ。群衆は一斉に後ずさり、石畳が騒音で震える。イレナは儀式台の上でひとつの沈黙を保っていた。白い修道服の裾に灰が付く。周囲の乱れが、彼女にとっては一種の膜のように遠かった。台に据えた古い聖書と、小さな黒曜の箱──影を収める器具が揺れるだけだった。

煙と叫びが投票所の空を掻き乱した。火薬の焦げる匂いが唇を乾かし、灰が風に舞って頬を打つ。群衆は一斉に後ずさり、石畳が騒音で震える。イレナは儀式台の上でひとつの沈黙を保っていた。白い修道服の裾に灰が付く。周囲の乱れが、彼女にとっては一種の膜のように遠かった。台に据えた古い聖書と、小さな黒曜の箱──影を収める器具が揺れるだけだった。

「イレナ! 石畳の北側が崩れた、こっちに票箱を!」とマルクが叫んだ。彼の声は鉄の響きを帯びている。マルクはかつて兵で、今は彼女たちの盾だ。粗末な鎧の隙間から血がにじむが、目は揺らがない。セリアは負傷者の中に身を埋めている。アユムは小さな木箱を抱え、顔をひきつらせている。

イレナは箱に触れた。冷たかった。黒曜の表面は手の脂を吸って、薄い影を返す。彼女の能力は、影を売ること──ひとつの影を渡す代わりに、呪いが見せた残酷な真実を、その受け手の証言として結びつける。だがそのたびに彼女自身の記憶がひとつ失われ、誰かの救いを無理やり押し付ければ呪いは跳ね返り、増幅する。今日、一つでも多くの声を残さなければならない。赦しを拒まないために、選択の根拠を証言として残さねば。

「始めるわ」と彼女は囁いた。言葉は自分に向けられた祈りにも、呪文にもなり得る。イレナはうつむき、黒曜の箱をそっと開いた。中には小さな影の欠片が幾つか封じられている。過去の売買で作られた断片だ。彼女は片手を差し入れ、最初の欠片を取り出す。指先に触れたとたん、群衆の一部の影が微かに震え、群れの中で一つの規則的な脈打ちが生まれた。影が同期する。まるで心臓の鼓動のように、群衆の影が一斉に薄く濃くなる。

「何だ、あれは」誰かが呻く。視覚は錯綜する。影のパルスは一瞬、周囲の不安を束ねるようだった。イレナはその脈を受け止め、ゆっくりと欠片を挟んだ掌を差し出す。「貴方の名前を言って。何が起きたか、一言ずつでいい」彼女は群衆に向かって呼びかけた。選ぶのは人々だ。選択の余地を渡すため、影を売るのだ。

若い母親が近づいて来て、肩で嗚咽を押し殺しながらうなずく。イレナは影の欠片を小さな唇の裏に置いた。母親の瞳が一瞬くらんだ。欠片は皮膚に溶け込むように吸い込まれ、その背後で影が震えた。母親は震える声で言い始める。「王府の兵が──子供を突き飛ばして、票箱を蹴った。あの男の紋章は赤い羽だった」言葉は確かで、裁判の証言のように重い。聴く者の気持ちが焦点を得る。

だが代償はすぐに現れた。イレナの頭の中で、初めて母に触れた日の光景が薄れた。市場の赤いテント。母が買ってくれた蜂蜜の瓶。細かい幸福の断片が、ひとつずつ風に溶けるように消えていく。彼女はその失われる感触を掴もうとして手が空をかき、寒さだけが残った。思い出は消えれば消えるほど、力は確かになる。

「イレナ、無理をするな」とセリアが叫ぶ。セリアは血まみれの幼女の腕を包帯で押さえつけ、目を見開いている。「その女の話は……民衆の証言になる。でも、それは君の子供時代の記憶と同じ重さでないと。消耗が早い!」

「わかってる」と彼女は答えた。しかしもう一つの現実が迫ってきた。北側から、王府の徽章を掲げた男たちが騒乱を起こした集団と交戦していた。だが彼らの中の一人の腕には、見慣れない紋章が光った──それはどこか行政の印章と似ていながら、微妙にずれている。誰かが組織を分断し、投票を操作しようとしている。イレナは心の中で冷たい歯車が回るのを感じた。真実を集めることは、制度の嘘を暴くことだ。だが同時に、彼女が無理に救いを与えれば──呪いは跳ね返る。

アユムが駆け寄ってきた。彼の息は荒く、木箱をしっかり抱えている。「投票箱は無事だ。ただし投票用紙が一枚だけ、特別な封筒に入ってる。封印に王府の印がある。だが中の紋は細工されてる。誰かが不正を流布するために混ぜたんだ」

「開けて」イレナは指示した。アユムは震える指で紙封を破る。中には一枚の紙が折りたたまれており、そこに押された印は確かに王府のものだった。だが、紙の端に小さな黒い点が刻まれていた。それは、呪いを識別する刻印──特定の呪詛を流通させる者だけが使う符。誰かが選挙の混乱に便乗して、票を偽装しようとしている。彼女の胸に、冷たい焦燥が走る。

「それが事実なら、ただの破壊工作じゃない」マルクの声は低かった。「誰かが投票の結果をすり替えるつもりだ。投票所が混乱している間に。……奴らは結果を作り出す。」

イレナは黒曜の箱に手を戻した。影の欠片は減っている。残りは限られている。今日の儀式は、ただの記録ではない。証言を集めて、後で誰もがそれを検証できるようにするための結魂──人々の証言が重なれば、嘘は割れる。だが彼女の記憶は、確実に一枚ずつ剥がれていく。もし最後までやり切れば、失うものは計り知れない。

背後で銃声が近づく。群衆が悲鳴をあげ、子供の声が割れる。セリアがひとりの兵士を止め、膝をついて言葉を続ける。「兵士達は命令を守ってるだけ。だがその命令を出したのは、内務の上席。印の持ち主……リオネルだ」

その名に、イレナの胸が跳ねた。リオネル──彼女がかつて信じた施政者の名だ。伝えられるところでは穏やかで、民のためを謳う紳士。だが今日、彼の印が票を汚す道具として使われている。誰かが彼の名を悪用しているのか、それとも彼自身が……。

「イレナ」マルクがまた言った。「封筒を持ってる奴らを見た。北門へ向かう影だ。追うか、ここで君を守るか。決めてくれ」

選択は刃のように突きつけられる。イレナは群衆の顔を一つずつ、影の一部として見た。今ここで声を取れば、数十の証言は束ねられる。だがマルクが追わねば、封筒は運び去られ、結果は改竄される。仲間は自律的に動いている。セリアは負傷者を選び、アユムは票箱の保全を優先するだろう。だがマルクは決断を待っている。

イレナは深く息を吐いた。口の中に薄い金属の味がする。彼女は掌の感触を辿る。そこにはもう、子供の頃に持っていた母の香りがあったはずだが、指先はそこに届かない。失う痛みが身体に残り、冷えが芯を侵す。だがこの痛みが、人々の声を確かなものにするのだ。

「行きなさい、マルク」彼女は言った。声は低く、確信に満ちていた。「封筒を追え。君の選択で、彼らの意図を止めてくれ。ここには私が残る。証言を取り続ける。誰かが後で検証できるように」彼女の指は箱の中の最後の欠片に触れた。影が微かに震え、群衆の脈が一度大きくなった。

マルクは一瞬、彼女を見た。そこに何かを測る瞬間があった──信頼か、諦めか、それとも恐れか。やがて彼は頷き、銃を握り直して北へと走った。背中が石畳の埃を上げる。

セリアが彼の背中に叫ぶ。「戻ってくるのよ! イレナを置いていかないで!」

「戻る!」とマルクは振り返ることなく答えた。彼の足音はすぐに群衆の喧騒に飲み込まれた。残されたのは選んだ者の重みと、増えるかもしれない呪いの可能性だ。

イレナの手の中で、最後の欠片が震えた。彼女はゆっくりとそれを胸に押し当て、目を閉じた。浅い祈りを紡ぐ。言葉は風に流れ、灰の中へ消えた。彼女が証言の結びを始めると、群衆の影は脈打ち、やがて一つの長い波になった。その波の端で、誰か