影を売る修道女は赦しを拒まない 第22話「第20章」
広場は朝の湿気でまだ冷たく、木製の台や帆布が潮の匂いを含んだ風にそよいでいた。杭を打つ音、ロープを結ぶ手の擦れる音、遠くで子どもが笑う声。だが、空気のなかにはそのすべてを押しつぶすような緊張が混じっている。イレナは台上に立ち、ゆるく編んだ黒い頭巾を指先で押さえた。目の前には、漆で磨かれた箱が一つ。表面には何も描かれていないが、陽を受けると吸い込まれるように暗く沈み、そこに差し込まれた割れ目が一箇所、投票の口になっていた。
広場は朝の湿気でまだ冷たく、木製の台や帆布が潮の匂いを含んだ風にそよいでいた。杭を打つ音、ロープを結ぶ手の擦れる音、遠くで子どもが笑う声。だが、空気のなかにはそのすべてを押しつぶすような緊張が混じっている。イレナは台上に立ち、ゆるく編んだ黒い頭巾を指先で押さえた。目の前には、漆で磨かれた箱が一つ。表面には何も描かれていないが、陽を受けると吸い込まれるように暗く沈み、そこに差し込まれた割れ目が一箇所、投票の口になっていた。
「影の選択式」——彼女が示したのは投票ではなく、個々人が自らの影を差し出すか保持するかを公に決める場だった。箱の横には小さな皿がいくつか置かれ、村人や商人が持ってきた、薄く切り取られた影の小片が並ぶ。影は布のように柔らかく、触れると冷たく湿り、指先に微かな重みを残した。差し出された影は箱の割れ目から吸い込まれるとき、かすかな低い金属音を立てる。誰かが息を飲むと、空気の重みがぐっと増した。
「大佐が来るそうだ」と、マリスが低く言った。彼女はイレナの右手に立ち、布で包んだ木箱をかかえている。表情は固く、鼻先にかすかな焦げた匂いが残っていた。横にいるトーマは、軍の灰色の外套をまだ引きずっているような懐かしさを見せながらも、顔色は青かった。コラ修道女は小声で祈りをつぶやき、群衆の前に進み出ている。
遠方、城門へ向かう道の先から金属の行進が近づく。重い靴底が石畳を打つたび、空気が振動する。やがて、王府兵の一行がゆっくりと現れた。隊列の先頭に立っていたのは大尉セヴァン。甲冑は黒光りし、胸には王璽の小さな飾りがぶら下がっている。彼は足を止め、両手を腰に当て、群衆を上から見下ろした。
「集会を中止せよ。あれは王令に反する。」その声は広場の隅々に届いた。兵士たちが周囲に楯を並べ、道を塞ぐ。民衆の一部がざわめき、色を失った顔で顔を見合わせる。だが誰も退かない。彼らがここに来たのは、抜け落ちた影を取り戻すか、せめて選ぶ権利を取り戻すためだ。
イレナはゆっくりと歩み出た。足下の石畳は冷たく、はためく帆布が腕に触れてざらりとした感触を残す。セヴァンは彼女を見つめ、口の端がわずかに上がった。
「修道女イレナ。ここで何をするつもりだ。王の影の管理を冒涜するつもりか」
「私たちは人々に選ぶ機会を返すだけです」イレナの声は静かだが、確かに届く。「影は恐怖の道具ではなく、個人の一部です。晒し者にしたり奪ったりするのは、あなた方の役目ではない。」
セヴァンの目が動いた。そこには怒りと、計算高さと、どこかで見たことのある疲れが混じっている。「ならば、その箱を渡せ。投票は認めない。撤去するように命じる。」
周囲がざわめきを強める。マリスが前に出て、拳を固める。「私たちは撤去しない。誰も奪われることなく、自分で選ぶだけだ。」
セヴァンは口元を歪め、手を示した。兵士の一人が箱へ近づく。軍靴が春先の泥をかき上げ、彼の影が箱の上に落ちる。指先が割れ目に触れかけたその瞬間、イレナは動いた。手を、指先を伸ばしてそっと差し出す。彼女の掌が箱の縁に触れたとき、空気がぴたりと止まった。
彼女の能力が起動する。その働きは目に見えない詩のように、しかし肉体的な影響を伴って広がった。イレナは声に出さない。口元に出るのは囁きにも似た構えで、だがその言葉は彼女の意思の中で、無数の声に変換されていく。群衆の前にいた人々の喉の奥から、忘れかけていた叫びや沈黙が引き出され、黒い糸のように集められて箱の上で編まれていくようだった。
その糸はゆっくりと空に放たれ、仄暗い光の帯となって人々の視界を横切る。帯は一人、また一人の記憶—焼かれた家、夜に消えた灯、子を抱いて走った路地の匂い—を連れて来る。群衆はそれを共有するようにして見た。煙の匂い、木の爆ぜる音、誰かの叫びに含まれた名前。セヴァンの顔が白くなる。彼の横に立つ兵の一人が唇を震わせ、「違う…」とつぶやいた。
真実は刃となって、聞く者の内側を裂く。イレナはそれを武器にした。彼女は一つの事件を、群衆の前で合わせて示した。王府兵が村を囲み、影を奪う儀式が行われた夜のこと。映像は肉体的な記憶として迫り、そこに映る兵の隊列、斬られたロープ、泣く者の顔。数人の兵士は目を背け、塞いだ。
だが能力は完全ではなかった。イレナが糸を引くたび、何かが彼女の内側から剥がれ落ちるのを感じた。始めは小さな空白だった。母が織ってくれた灰色のマフラーの模様、幼い日の兄の笑い声の高さ。次に来たのはもっと深い消失だった。彼女はふと、自分が今、なぜここに立っているのかという初めの決意の言葉を思い出そうとして、そこに何も無いことに気づいた。言葉の端がぼやけて、彼女の心に穴ができる。寒さが胸を刺し、視界の端に黒い斑点が浮いた。
「イレナ!」マリスの声が鋭くなる。「止めろ、記憶が…!」
だが集団のなかで、既に変化は始まっていた。イレナが強制的に「救済」を押しつけた瞬間、物理的な反応が生じる。影は、まるで引き剥がされるように、体から剝がれ出した。最初は勇ましい者からであった。兵士の一人が自分の足元の影が裂けるのを見て、呻き声を上げる。影は薄い膜のように皮膚から剥がれ、湿った音を立てて空中に浮く。人々は手でそれを掴もうとするが、触れれば触れるほど冷たさが染み入り、指先が痺れる。数歩離れた屋台の前で働く女が床に倒れ、影を持たれていたはずの胸が瞬間的に軽くなると同時に、目が虚ろになった。
「奪うつもりか!」セヴァンが怒号を上げる。彼の手が引かれた影の一片を追いかけるが、影は彼の指先をすり抜け、箱の方へ吸い寄せられていった。黒い小片は互いに寄り添い、箱の中へ滑り込むとき、箱がひときわ低い振動をした。低いうなりのような音が広場に響き、鳥が一斉に羽ばたいた。
コラは子どもを抱き上げ、口に唾を含むようにして必死で瞳を閉じさせた。「強制はならない、皆、自分で——」言葉が途中で裂ける。イレナの能力が働くほどに、強制された救済は呪いを刺激するという性質がはっきりと現れてきた。影の剥離は同時に周囲の影の飢えを呼び、見えない渦のように広がる。影をなくした人々の顔はどこか空洞になり、意識が薄れていく。
トーマは走り、箱を抱きかかえようとした。彼の手にかかったのはほんの一瞬の成功だった。直後、矢のように兵が駆け込み、トーマの肩に刃を受けた。刃は革を裂き、温かい鉄の匂いと共に血が手首から滴り落ちる。トーマは顔をゆがめ、箱を放した。木片が刃で欠け、箱の端が傷つく。広場の空気が赤い色になったように感じられる。彼は床に膝をつき、後ろに倒れ込んだが、まだ口をききたそうに息を整える。
「やめろ!」マリスが兵の一人を押しのけ、トーマに覆いかぶさる。彼女の手は血で染まり、指先が震えた。目は怒りで燃え、だがその怒りは理解のある悲しみに変わる。彼女の選択は即座に行動として現れた。彼女はトーマを守るために兵を押し返し、そのすきに群衆が箱の周りを囲む。
そのとき、箱の割れ目から細い煙のような帯が上がった。それはほの暗く光り、箱の内側で何かが反応しているように脈動する。イレナはその脈を感じ、一瞬胸が締めつけられる感覚を覚えた。記憶の欠落が加速し、彼女は