影を売る修道女は赦しを拒まない 第19話「第17章」
鉄柵の陰が、防壁の粗い石と縺れ合っていた。夕陽は低く、影を長く伸ばす。柵の鉄筋は濡れたように黒光りしていて、その影が地面の裂け目に落ちると、ひび割れがさらに深く見えた。鋭い金具が町の境界を線引きする。境界線の向こう側では、兵士のブーツが石を踏み締め、鎖で縛られた影を引きずる音が連続していた。金属がこすれる音、誰かの嗚咽、そして命令が張りつめた空気に溶けていく。
鉄柵の陰が、防壁の粗い石と縺れ合っていた。夕陽は低く、影を長く伸ばす。柵の鉄筋は濡れたように黒光りしていて、その影が地面の裂け目に落ちると、ひび割れがさらに深く見えた。鋭い金具が町の境界を線引きする。境界線の向こう側では、兵士のブーツが石を踏み締め、鎖で縛られた影を引きずる音が連続していた。金属がこすれる音、誰かの嗚咽、そして命令が張りつめた空気に溶けていく。
「もっと早く。数を増やせ。影は国の資源だ」
声は冷たかった。命じたのは斜めに腰掛けた隊長、短髪の男だった。彼の周囲では若い徴収隊が影の紐を扱っている。紐の端に黒い布片のようなものがぶら下がり、人が触れるたびに微かに体温を奪うように見えた。
柵の隙間近く、カリナは手袋の先で一枚の影紐を見つめていた。指先に伝わる感触はざらついて、手応えがあるのに掴めない。彼女は唇を噛んで、雨に濡れた髪を耳の後ろに押しやった。胸の中に重い石を抱えているようだ。軍の内圧が、まるで手首の鎖のように食い込む。その鎖の一環になれと言われている自分が、どうしても納得できない。
影徴収の恐怖は、彼女個人の回想ではない。そこに立つ誰もが、影を『取り上げられる』恐怖を持っていた。影が取られた者は、名もない罪で逮捕され、影が所有者として登録されると生活の自由が奪われる。だが、それだけでは終わらない。影を剥ぎ取られた者は、何かを忘れていくのだ――忘却は影の副作用だと、誰もが囁いていた。
「カリナ」声が静かに、しかし確かに届いた。向かいの柵の角の、影が半分顔を覆う位置に立っていたのはイレナ。灰色の外套を羽織り、手には羊皮紙の束を抱えていた。彼女の顔は光と影で二等分されている。左側は夕陽で焼け、右側は防壁の影で切り取られている。顔のその両側に、年月が刻んだ深い線があった。
「会いたかった、イレナ」カリナは答えた。言葉にねじれた温度が混じる。イレナは教会の影局に近い立場で、制度を内側から動かす役割を負っている。軍とは立場が違えど、影徴収を正当化する法枠を紡いだのもイレナの仕事だった。二人の立場は頻繁に交差し、ぶつかる。
鉄柵の隙間を覗き込むと、修道女がいた。灰色の頭巾に紋章のない襟、名札もない。彼女は群衆の中に溶け込んでいるが、目は冷たく光っていた。シスター・マリス。影を売るという噂の中心にいる修道女だ。ひとたび彼女が声を上げると、町で虐げられた人々の口が一致して真実を吐き出すという。マリスは小さな黒い瓶を両手で抱え、瓶の中の影が揺れるのを見下ろしていた。
「あなたが来るのは分かっていた」イレナがカリナに言った。「外套を纏って、理屈を並べる。けれど君は、何を守りたい?」
カリナは柵の鉄を握り直し、手のひらから汗が滲むのを感じた。「守るべき人々を。影に脅かされる町を。私には、これ以上──」言葉は震えた。彼女の中で、軍に忠誠を尽くす自分と、子供のころ影を奪われた妹の思い出が押し合っている。
イレナは羊皮紙の束を差し出した。それは役所の命令書らしく、角が擦り切れていた。「私は制度を壊すつもりだ。けれど、崩すには内側から変えるほうが早い。命令を書き換える、徴収のための根拠を削る。だが、君はすぐに瓦礫の上に飛び込んでしまう。方法は違えど、私も痛みを知っている」
カリナは息を吸った。言葉の中に、イレナの苦悩が混ざっているのを感じ取った。確かに、イレナの瞳には過去の痛みが宿っている。だがカリナの答えは決まっていた。「私は人を守りたい。制度は時間がかかる。瓦礫の下で人が死ぬのを待てるか?」
その瞬間、群衆の一角で喚き声が上がった。若い女が兵士につかまれ、影を引き剥がされかけている。女の影は痙攣して、地面に貼りつくように震えた。女は口を押さえられ、目は怯えていた。マリスが立ち上がる。黒い瓶を高く掲げ、低い祈りを呟き始めた。彼女の声は音節を失わずに、群衆の中の真実を呼び寄せる。
マリスの技は、証言を束ねることだった。彼女は影を「売る」と言われるが、本当は影の中に宿る目撃と痛みを、ひとつの紐に織り込む。聞いた者の記憶をその紐に託し、全員の証言を一つに束ねる。壇上の国法では得られない証人の数を、物理的な「証」として提示するためだ。しかし、そのためには彼女自身の記憶を差し出す必要がある。少しずつ、少しずつ、彼女は自分の中の大切なものを影と交換する。
マリスが瓶に影を注ぐと、空気が冷たくなった。瓶の中の影は渦を巻き、そこからぼんやりと人々の記憶が吸い上げられるように見えた。彼女の頬がげっそりと落ち、目が一瞬曇る。息を吸った時、舌の先に鉄の味がした。彼女は手を胸に当て、まるでそこから何かが抜け取られるのを感じた。
「思い出しておいて」誰かが囁いた。マリスは小さく笑った。「覚えていられるものは減る。代わりに、こうして誰かの声を救える」
瓶の蓋が閉まり、黒い塊は小さく唸った。群衆の中で女の表情が変わる。口を押さえていた手が緩み、彼女は嗚咽とともに何かを吐き出し始めた。彼女の語る言葉が、他の者の記憶と絡まり合い、裁判には届かなかった生々しい現場が一つの連なりとなって外套のように広がった。兵士たちはその場で動揺し、命令が一瞬途切れた。
だがその直後に起きたのは、予想外の反応だった。影徴収の機械のような装置が、反射的に――防壁の影の中からではなく、柵の鉄筋の隙間から――黒い糸を吐き出した。それは萎縮する人々の影を掻き集め、瓶から漏れた残滓のように群衆の足元で絡まり合った。影が増幅する――それがマリスの代償だった。真実を力に変え、誰かを救おうと力を行使した時、呪いは報復のように答える。影は広がり、捕まった者だけでなく、徴収を行う側の兵士にも絡みついた。若い徴収隊の一人が突然膝をつき、喚き声を上げた。彼の視線は、目の前の自分とは別の過去を見ているかのようだった。
「増えた」イレナの声が震えた。「強制は、呪いを北の方へ押しやるだけだ。君はそれを分かっているはずだ、カリナ」
カリナは目を見開いた。血の匂いが鼻腔をつき、身体の背筋が寒くなった。彼女は自分が何かを変えたのではなく、波紋を広げてしまったことを知る。妹の笑顔を思い出そうとするが、そこから何かが溶けていく。彼女は急に、妹の髪の匂いがどんなだったか思い出せなくなった。
「私の方法が──」カリナは言いかけて言葉を飲み込む。目の前で兵士と群衆が押し合っている。マリスは瓶を抱え、肩を震わせている。彼女の額に細い汗が光った。自分の記憶を代価にして人々の証言を束ねた瞬間、町の影は蠢き、呪いは領域を広げた。
その時、イレナは羊皮紙の束から一枚を取り出し、カリナに差し出した。紙の端には、消えかけた印章と不吉な文字列が押されている。「王都の『影格納塔』の位置だ。そこに、徴収された影の多くが保管されている。伝承では、塔の中の器械は影を種として保存し、必要に応じて配分するという。だがそれはただの噂ではない。君が今見た増幅――それは、保管された影が外部の介入に反応している兆候かもしれない」
カリナは紙を受け取った。紙の手触りは冷たく、湿っている。考える暇はない。塔を押さえれば、影の流通の中心にたどり着けるかもしれない。だが同時に、塔には何が眠ってい