灰を食べる執行人は世界を救わない 第15話「第13章」
市場の灯がすぼまり、張り出された大判ポスターの赤が夜に滲んでいく。王府の標語はもう一枚の薄紙のようにひらひらと剥がれ、裏の墨で書かれた落書きが露出した。通りの隅に積まれた灰の山が、低い風にさらさらと音を立てる。灰は常にそこにあった。息を吸うたびに、金属と硫黄と乾いた紙の匂いが鼻を刺す。
市場の灯がすぼまり、張り出された大判ポスターの赤が夜に滲んでいく。王府の標語はもう一枚の薄紙のようにひらひらと剥がれ、裏の墨で書かれた落書きが露出した。通りの隅に積まれた灰の山が、低い風にさらさらと音を立てる。灰は常にそこにあった。息を吸うたびに、金属と硫黄と乾いた紙の匂いが鼻を刺す。
「ここでやるのか」
ダレクが肩に掛けた外套を引っ張りながら問いかける。彼は元兵士の肩幅を持つが、今はその肩で肌着の裾を掻き、眠れない夜を繰り返している。隣でミリィが小さな灯を指で掴むように守り、震える声で答えた。
「住民たちが通る。噂が一番広がる場所よ。選択をつくるには、まず見せること。強制じゃなく、見えるようにするの」
その「見せる」を担うのが執行人シオンだった。彼は石段に腰を下ろし、指先で灰の塊を掬い上げる。灰は温度を持たず、細かく、指先に吸いつくように落ちる。小さな皿を取り出すと、皿の縁を指でなぞり、舌先にそれを押し付けた。
「シオン、やめろ」ダレクの声が裂く。だがシオンは静かに、皿の中の灰を口に運ぶ。誰にも命令されない習慣で、彼の顎が小刻みに動く。灰は味が無かった。あるいは、味覚が記憶の重みで麻痺しているのかもしれない。喉を通ると、記憶の端が引き裂かれるような感覚。彼はすぐに皿を膝に置き、目を閉じた。
能力はいつもこうだった。四方の声を手繰り寄せて一本の糸に編むとき、その糸は確かなかたちを取り、誰もが目の当たりにできる証言に変わる。その力を行使する代わりに、シオンは自分のなにかを渡す。今回は母親の指先の感触が遠ざかり、次いで子供の名を呼ぶときの自分の声が霞んだ。舌の奥にあった母の唇の温度が、まるで映写機のフィルムのように薄く薄く引き伸ばされ、消えそうになる。
「俺たちのやり方は間違ってない。強制で救おうとしているんじゃない。ただ、嘘を嘘だと知ってもらうんだ」ミリィは震えながらも前を向く。彼女は声で人を導く術を持っている。祭壇で説教した経験はないが、人々の沈黙を破る力を持っている。その力はシオンの束ねた証言が初めて大衆の前で語られるとき、火を灯すことができる。
「選択肢を生む。押し付けはしない」シオンは言葉を吐くように返した。その喉の奥に空洞ができた。彼の記憶の一片が欠けていることに気づかないのはいつものことだが、今は心地悪い。皿の縁が汗で滑った。灰は彼の唇にもう一度落ち、味のない冷たさが広がると、彼は視界の周縁に人々の声を引き寄せる。
「私は最初に見た」低い、震える声が角地から上がった。背後にいた老女が、しわくちゃの手で口を押さえている。彼女はマルカ村の生存者の一人だ。王府はあの村の惨劇を「秩序維持」と呼び、聖堂は碑文で記録を消した。だが老女はここにいる。彼女の目は光り、顔に差す月灯りで凍ったように見えた。
人が集まり始める。噂はすでに火種を持っていて、夜の寒さをものともせず、足音が混ざり合う。シオンの能力は針のように働き、老女の脳裏の断片、若者の手の傷、農夫の苛立ちを糸で結んでいった。その糸は音に変わり、彼の口から出る。最初は細い声だったが、次第に太くなり、周囲の空気が変わるのがわかる。
「穀は呪いで汚された。送り主は王府の蔵だ。証拠は——」シオンは言葉を絡め、語り続けた。言葉は席を占め、あらゆる疑念を押し退ける。だが彼が一つの結論に達するごとに、掌の奥にあるもう一つの痛みが増幅する。胃の奥から、冷たい鉛が這い上がるような感覚。灰の粒子が肺に張り付くように、記憶の片端が息をするたびに剥がれていく。
それでも人々は沈黙を破る。ミリィは老女の手を取り、彼女が望むなら自分の言葉で話すよう促した。老女は始めに足を引いたが、次第に語り出す。言葉は素朴で、感情が剥き出しだ。自分で語ることは、強制的な救済ではない。シオンの糸は老女の声に支えられて、真実の輪郭を露わにする。
だが通りの空気が変わると同時に、遠くで亜麻色の布を纏った数人の徴発官が姿を現した。彼らは聖導庁の腕章を胸に縫い付けている。徴発官の一人が手を挙げ、露骨に印字された文言を読み上げた。
「不当な煽動を禁ず。秩序を脅かす行為は罰せられるべし」
彼らの声は整然としていた。背後にある小さな音が、鼓笛隊のように規則正しい。だが徴発官が近づくと、空気中の灰の粒がざわつき、急に冷たい嵐が小刻みに吹いた。かすかな灰の雨が人々の髪や肩を覆い、その一部が服に張り付いた。顔を覆った人々は咳き込み、幾人かは目を赤くして膝をついた。
「増幅だ」ダレクが短く呟く。言葉の意味は、そこにいる全員が知っている。強制の匂いがしたとき、呪いは反応する。かつて、シオンが無理に子供を避難所へ連れて行ったとき、近隣の住宅の煙突から灰が噴き出し、窓外の人々の呼吸が変わった。強制による救済の試みは、呪いを刺激し、灰を増やす。増えた灰は人々を病ませ、選択の余地を奪う。それが敵が秩序として用いてきた論理だ。
「我々は強制しない」ミリィが声を張る。「ここで証言するのは本人たち。聞くかどうかは、あなた方次第よ」
徴発官は彼女を冷たく見下ろした。だがその視線の奥に、ためらいがあった。秩序を守る者たちもまた、全てを知っているわけではない。局の指示は出るが、それを伝える者の胸には家庭があり、選択がある。徴発官の一人が小さく咳をした。灰が彼の肩に薄く積もる。
その夜、通りは二つの波に分かれた。興味本位で集まった者たちと、明日のために選択の余地を求める者たち。シオンの能力は真実を一つの声にまとめた。しかし、その声がどのように使われるかはそれぞれの手の中にある。選ぶ自由は守らねばならない。ミリィの言葉はそこに釘を打った。
だが代償は避けられなかった。束ねた証言が大きくなるほど、シオンの記憶は薄れる。彼の胸にあった、小さな金の鍵の在り処を示す光景が消えた。鍵はいつもポケットにあった。母が亡くなる前に彼女が押しつけた、小さな冷たい重り。シオンは手を探り、指先が空を掻くだけなのを感じた。胸にぽっかりと穴が開いたように寒い。
「何か忘れてる」彼は呟いた。声に色がない。
ユエがすっと近づいてきて、シオンの手を取り、皿を拭うように指で灰を払った。ユエは背が低く、眼差しにただならぬ意志を宿している。彼女はしばらく黙ってから、低く断定的に言った。
「忘れたものを取り戻す方法はない。けれど、失う代わりに私たちが得たものは確かよ。誰かが自分の言葉を持って立つなら、強制にはならない」
その瞬間、通りの向こうから叫び声が上がった。徴発官の一人が人垣を押し分け、手にした紙片を高く掲げた。紙には印章と小さな数字が複数記されている。聖導庁の紙だ。それを見た老女の顔が変わる。呼吸が止まるほどに、彼女の指先がその紙を握りしめようとする。
「それは……」老女は言葉を継げない。紙の角が月灯りを受けて光る。書かれた文字列は、彼女が昔、倉庫の奥で見たものと同じだった。数字と、印章。そして、小さな灰の欠片が紙縁に付着している。近づけば、それはただの煤ではない。微かに規則正しい模様が灰の集合の中に浮かんでいた。
ミリィがその欠片を拾い上げ、指先に当てる。触れた瞬間、彼女の目が瞬いた。模様はまるで刻印で、