聖女薬店

聖女薬店 第8話「第7章 聖女と小さな抵抗」

店の戸を押し開けると、潮の匂いの混じった冷たい風が調合台の上の紙束を揺らした。リリアは短く息を吐き、埃を払うように手の甲で額の汗をぬぐった。足元ではマルコが古い帆布袋を抱えていた。昨夜走り回ったらしい小さな切り傷が腕にあるが、顔には焦りと誇りが混じっている。

店の戸を押し開けると、潮の匂いの混じった冷たい風が調合台の上の紙束を揺らした。リリアは短く息を吐き、埃を払うように手の甲で額の汗をぬぐった。足元ではマルコが古い帆布袋を抱えていた。昨夜走り回ったらしい小さな切り傷が腕にあるが、顔には焦りと誇りが混じっている。

「師匠、今日、港広場で大きな布教があるって。聖女派の」とマルコが言った。声は低く、それでいて町中の噂を運んでくる風のように鮮明だった。「領主さんまで来るっていう話だ。店を閉めるようにって話をされるかもしれないって、みんな心配してる」

リリアは手元の小瓶を見た。赤い小瓶は、まだ表面に薄い曇りをまとっている。拾ったときから変わらず、どことなく生もののように温度を保っているように思えてならなかった。いまは作業用のアルコール溶液を入れて保存してあるが、本当にただの保存液なのか、それとも――。

「町は私を必要としてる。教義で片付けられる病気なんかないって見せるだけでいいわ」リリアは言葉を短く切って、調合台に並べたメモ帳を指差した。その表紙には幾つもの短い処方が整理されている。成分、温度、時間。彼女がここ数週間、住民に配って回っている“書面処方”だ。

マルコは首を傾げた。「だけど、聖女派の人たち、本気で潰しに来るよ。昨日、説教師がうちの前で大声で『奇跡のみにすがれ』って叫んでた。あいつらが力をつければ、領主さんも耳を貸す」

「だからこそ、開かれた手順を出すの。誰でも再現できるように、誰でも正しく使えるように」リリアは指先で紙の端を撫でる。説明責任。再現性。前世で何百回も繰り返した言葉が、知らず知らずのうちに彼女を突き動かした。

「ただ、調合視はそう簡単には使えない」と付け加えた。声は柔らかいが確固たるものだった。「患者と原料、同時に触れなきゃ発動しない。書面で成分・温度・時間を書いてからでなきゃ、本格的な調合はできない。今日は完成調合は使わない。あれは一日に一度だけの切り札よ」

イレナが戸口から顔を出した。肩には白い包帯が乱雑に巻いてあり、表情は冷静だった。「公衆の場で感情的になると、聖女派に付け入る隙を与えるわ。私が説得役をする。リリアは現場で『見える化』をお願い」

セルヴァンは背中の袋の中で何かを触りながら、にやりとした。「商人は機会を逃さんよ。俺が市場の連中に話をつける。生鮮を扱う者たちは人体の些細な変化にも敏感だ。俺が味方につければ、聖女派の大声は届きにくくなる」

仲間が揃った。四人の輪は小さな店の中で固く結ばれ、外の広場へと向かう決意が形になっていった。

広場は既に人で満ちていた。聖女派の旗が太陽を受けてはためき、説教師は台上で演説を続けている。彼は低く豊かな声で、「奇跡は神の賜物であり、その雑事を人の薬で穢すべきではない」と繰り返していた。言葉は簡潔で、聞く者の心にすっと入る。

リリアはマルコと共に群衆の端に立った。彼女は小冊子を取り出し、端末のようにきちんと成分・温度・時間を書いた紙をマルコに差し出した。「配って。読むだけで安全な範囲で使えるように書いてある。『局所塗布、成分:アールト根抽出10ml、温度:40度±5度、時間:30分で一日三回』――こういう形で。手順を知らなきゃ誤用が出る。誤用が出れば聖女派の勝ちだ」

マルコは躊躇なく紙束を受け取ると、人混みをかき分けて配り始めた。彼の声は若かったが、配り方は要領がよく、人々は受け取ると説明書きを覗き込んだ。何人かは眉を寄せるが、表情は次第に和らいでいく。

説教師の演説が一段落したところで、領主の息子が台上に上がった。金糸の縫い飾りが入った派手な羽織を着ている。彼はにこやかに、しかし無遠慮にリリアを指した。

「彼女は町の風評を煽る者だ、皆の健康を守ると言うが、秩序を乱す危険がある。聖女の導きに従うのが最も安全だ。我らは秩序を守る」

秩序。聖女の祝福。それがこの町でどれほど深く根付いているかを示す言葉だ。群衆の一部からは拍手が起き、リリアの胸の中に冷たい鉛が落ちるように沈んだ。

だがその瞬間、屋根の上から小さな砂袋が落ち、聖女派の掲示板に直撃した。貼られていたビラが風に舞い、群衆の間でざわめきが広がる。拍手が怒声に変わる。

「おい、誰だ!」

マルコは前に飛び出した。若い男が聖女の横に立ちはだかり、掲示板を引き剥がした。男の顔は泥で汚れ、眉間には疲労の線が刻まれていた。「彼女たちに金で祝福を売らせるのか。うちの母さんは金を請求されて、治らず死んだ。そんな聖女のせいで町が回るのか!」

群衆の目が一斉にその男へ向く。説教師の顔が青ざめ、領主の息子の口が固く閉じた。マルコは一歩も退かずに立っていた。彼の小さな首には古びた革の首輪が見える。人々の視線がそこへ向くと、誰かが小さく息を飲んだ。

「待て、暴力は――」イレナが前に出て、男の腕を優しく掴んだ。彼女の声は冷静だった。「話を聞こう。誰かが傷ついたなら、まずは理由を」

説教師は舌打ちをして台に戻り、領主の息子は侍女に促されて控えに消えた。表面上は混乱が収まりかけたが、空気は悪かった。リリアは群衆の裂け目から、男の母の名を聞き取り、胃がぎゅっと縮んだ。彼女が診ていた家の一番古い常連だった女性だ。助けきれなかった。胸のどこかが確かにまた欠けているのを感じた。

「ここで反論しても、口論になるだけよ」とセルヴァンが囁く。「だが、リリアのやり方を見せれば、事は変わる。今日、俺は希少素材を持ってきた。小さく安定させる触媒だ。あれがあれば、塗り薬の保存性が上がる。配布する」

彼は背中の袋から小瓶を取り出した。中身はほとんど透明だが、光を受けると微細な虹が揺れた。セルヴァンはそれを慎重にリリアの手の平に置いた。掌に触れた瞬間、リリアの視界に薄い線が浮かんだ。

その線は患者の胸から外へ向かって伸び、材料の分子構造に絡みつくように波打った。彼女は無意識に患者の腕にさわり、同時に小瓶に触れた。条件は満たされた。患者と原料に同時に触れる――調合視の起動。

視界に現れたのは、普通の光景ではなかった。波形が色を変えながら流れ、患者の体表から出る赤い脈に共鳴するように小瓶の中の液体が微かに輝いた。その波形のなかに、小さな規則的な脈動が混じっている。既に彼女はどこかでそれを見たことがある。だが記憶の端がいつも薄く、はっきりとは思い出せない。かすかな旋律のように、胸の奥で残るだけだ。

「聖痕に似た波形……」リリアは唇の端でつぶやいていた。声は小さく、しかしイレナは聞き取った。「何が見えるの?」

「装置の波形と似ている。小さな規則的な脈動。触媒が生体の流れと同期してる」リリアは紙にペンを走らせる。『成分:セルヴァン触媒1滴+アールト根抽出10ml、温度:40度、時間:30分』。手は震えなかったが、右腕の裏側を走る白い瘢痕がひりつくように疼いた。瘢痕はここ数週間で確実に広がっていた。感情の尖りが少し鈍くなるのを感じるが、今はそんなことを構ってはいられない。

「これを希釈して局所塗布。説明書を配って。書面があれば、議論は手順の話にできる」彼女はマルコに紙を差し出した。マルコは紙を受け取り、配布を再開した。リリアは手早く、配布用