魔法学園 第15話「第13章」
朝の空気が、昨日までとは違った重さを持っていた。鳥のさえずりは薄く、風は低く唸る。白樺魔法学園の裏手に広がる畑は、葉の縁が乾いて茶色くなり、畝の間に小さな霧が立ち込めるように見えた。色が――確かな色彩が、少しずつ抜けていくような違和感が誰の目にもあった。
朝の空気が、昨日までとは違った重さを持っていた。鳥のさえずりは薄く、風は低く唸る。白樺魔法学園の裏手に広がる畑は、葉の縁が乾いて茶色くなり、畝の間に小さな霧が立ち込めるように見えた。色が――確かな色彩が、少しずつ抜けていくような違和感が誰の目にもあった。
「動きが鈍く見えるだろう。土も、水も、空気も、全部が少しだけ重くなっている」
翔平は言葉にしてから、自分が教師らしく説明をしているのだと気づいた。前世で何度も繰り返したように、端的に事実を示すことで人は落ち着いた。背中に定規を差し、黒いコートの裾を畑の縁に引っかけながら、彼は生徒と住民の輪を見渡した。
黒田蓮は学園の現場指揮を取り、二列に並んだ生徒たち――有志と、近所の農夫たちが交じっていた――の前で小声でアナウンスしている。蓮の声は切迫していたが、冷静さがあった。ユイは肩を丸め、掌に小さな布を握り締めている。目の下に影ができ、昨日の夜に村巡りをした疲労がまだ残っているのが見て取れた。
「まず合意を取る。必ず『学ぶ意志』を示してもらう。強制は絶対にしない」翔平は低く、はっきりとした口調で言った。倫理委の基準は、彼自身が最も厳しく守る掟となっている。教師である以前に、彼はその掟の番人だった。
住民の一人が手を挙げる。年配の女中、名は栄子。顔には疲労と不安が刻まれていたが、彼女はゆっくりと頷いた。「やってみたい。自分たちで戻せるなら」
翔平は頷き、三段階だけを示した。言葉は短く、無駄がない。第一段階――意図の言語化。第二段階――動作を合わせる。第三段階――同時に呼吸を合わせて理解の合意を確認する。彼は定規を手に取って、示範を始めた。定規を軽く叩くリズムが、小さく、確かな拍子を刻む。刻印の端が朝の薄光を反射して微かに光った。誰もまだその古びた紋様の意味を知らないが、動作同期の補助としては有効に見えた。
翔平はユイに優しく目を向ける。彼女は小さく息を吸った。子守歌の断片が彼女の喉を通り抜けると、周囲の人々は無意識に口を閉ざす。歌は短く、古めかしい旋律の一節だけを繰り返す。歌声は空気に小さな振幅を作り、土に届くような低い倍音が混じった。ミラノが隣で小さな測定器の画面を覗き込み、眉を動かす。数値が振れる。彼の唇がほんの少し震えた。
「ユイ、ゆっくり。三で息を吐くよ。皆、私の声に合わせて」
翔平が声をかけ、定規を叩き、全員が同じ動作を一度合わせる。三回目の呼気で、畝の間に微かな蒸気が上がった。土の匂いが、少しだけ鮮やかになった気がした。葉の先がわずかに膨らみ、しわが伸びる。誰かが息を漏らし、小さな歓声が起きる。翔平は胸に温かさが走るのを感じたが、同時に額に冷たい違和感がよぎった。
それは代償の到来だった。使用の直後、彼の頭に小さな空白が生まれる。授業で使った具体的な順序の一部、朝に交わした些細な会話の断片が、しわがれた紙のように薄く剥がれ落ちる。翔平はそれを押し留めようとしたが、細部は消えた。代わりに、手元の感覚だけが残った。体は少し重く、動きに微かな抵抗を感じる。明日の行動力が半分になることを直観的に理解した。
「大丈夫か、先生」蓮が駆け寄り、翔平の肩を支えた。蓮の顔に心配の影が差す。彼は翔平の短期忘却を何度も見てきた。だが今回は、表情の奥にもう一つのものがある――決意。蓮は自らの役割を固めつつあった。
ミラノが測定器を手に、低い声で報告する。「ユイの声は——周波数帯が通常の治癒音波とはずれている。中低音の共鳴が広域に伝播している。効果はあるが、彼女にかかる負荷は大きい」
ユイが微かに笑った。笑顔は疲れていたが、そこに確かな誇りがあった。「みんなが喜んでくれた。私、嬉しい」
そのとき、学園の正門付近で車のエンジン音が低く響いた。五年式の黒い車両が校庭を通り過ぎ、舗装道に砂ぼこりを上げると、背後の空気がさらに沈んだ気がした。車を下りた男は筋の通ったスーツを着ており、名刺入れの角を示しながら近づいてきた。根源採掘社のロゴは入っていなかったが、作業着でもなく、領主の使いでもない、企業の代表らしい洗練を帯びていた。
「白川校長、朝倉先生ですね。私はアークス・エリア管理局、現地責任者のヘクトル・マルローです。ご迷惑をおかけしていると聞き、直接お詫びと提案に参りました」その声は滑らかで、外面は丁寧だった。だが翔平の目は、言葉の裏に潜む計算を探る。根採社の関係者が『協力』を申し出るとき、そこには何かが必ずある。
白川校長がゆっくりと立ち上がる。白髪が朝日に薄く銀色になる。「話を聞きましょう。しかしこちらにも守るべきものがある。無理強いは許さない」
ヘクトルはにこやかに頷いた。「もちろんです。現地の方々には経済的な損失も出ている。弊社の試験は安全基準内で行っており、影響は局地的だと考えております。しかし、補償と技術支援を含めた『協力関係』を結べれば、より早く復旧できるはずです」
ミラノが鋭く切り返す。「あなた方の『試験』で土地から魔力が薄れているのではないかという報告がある。データはまだ断片的だが、その疑いは消えない」
ヘクトルの微笑みは変わらない。だが目が一瞬、冷たく光った。「現場での因果関係を証明するのは簡単ではありません。我々は科学的手段で調査しますし、その間協力をいただければ代替措置を講じます。例えば学園の支援プログラムへの資金提供──そして技術者の一部を、共同で配置するというのはどうでしょう?」
提案は魅力的に聞こえた。金と人手、機材の提供。学園と住民にとって必要なものだった。しかし翔平は自分の中の教師としての感覚を強く意識した。学園は独立した教育機関であり、外部の影響で教育方針が変えられてはならない。ましてや「協力」が磁石のように信頼を引き寄せ、次第に学園の自主性を侵食する可能性がある。
「協力の条件を明確にしなさい」翔平は静かに言った。声にはいつもの授業の温度が混じっている。「誰が何を決めるのか。学園の教育に口を挟まないという保証を文書で出してほしい。住民の合意なく、生徒を実験に巻き込むことは認めない。私たちの『学ぶ意志』を尊重することを最優先にする」
ヘクトルは少し間を置いてから、再び微笑んだ。「当然です。合意は常に重要です。研究としての透明性と、住民保護は弊社の方針でもあります。ただし、時間は限られている。私どものスケジュール通りに進められないと、影響は広がるかもしれません」
白川校長の顔が固まる。「あなた方が本当に地域を守るつもりなら、学園の提示する調査チームにデータを提供すること。倫理委の立ち合いで全ての操作を行うこと。これが守られないなら協力はできない」
ヘクトルは一礼して名刺を差し出した。カードの縁が朝日に反射する。そこには小さく、整然とした文字で部署名と連絡先が印刷されていた。翔平は名刺を受け取ったが、指先に冷たい重さがあった。受け取ること自体が意思表示になる。彼はそれを知っていた。
住民の一人が前に出て、手で土をさすった。「補償は魅力だが、ここの水と空気が戻るなら、何よりだ。だが我々は自分の手でやりたい」
ユイが小さな声で歌い出す。歌声はこの場の緊張を和らげ、誰かの呼吸を整える。翔平